TOMIXから 湖西線開通50周年記念 113系700番台セットが発売
TOMIXから、湖西線開通50周年を記念して「国鉄 113-700系近郊電車(祝 湖西線開通50周年)セット」が発売されます。
湖西線の開業当初は山科―永原が直流電化で、近江塩津駅の手前に交流電化区間とのデッドセクションが設けられており、113系700番台は直流区間用として4連9本と6連8本の合わせて84両が製造されました。
降雪区間である湖西線で使用するため、113系をベースとしながら115系に準じた耐寒・耐雪装備を持ち、外観上もスノープロウやタイフォンカバーなどが設置されており、扉の半自動扱に備えて乗降扉の窓付近に取っ手が取り付けられているのが基本番台との違いです。
また、当時の113系では総武・横須賀線向けの1000番台で新製冷房車が登場した頃で、700番台も新製時より冷房を搭載していました。
この他、北陸トンネル火災事故での教訓を踏まえて徹底した火災対策が施されており、地下線を走る1000番台と同等の不燃基準を満たしています。
モデルでは、4両編成を2本つなげた8両セットで、開業当初の編成と外観をイメージし、開業記念ヘッドマークが付属しています。
湖西線開通以前 国鉄のメインルートからは外れローカル私鉄が存在
湖西線は、京都府から比良山地を隔てた琵琶湖西岸を走る路線で、1974年(昭和49年)に開業した、幹線としては比較的新しい路線です。
関西と北陸を結ぶルートとしては、古くは西近江路として現在の湖西線に沿う琵琶湖西岸を通るコースが存在し、日常的なヒトやモノの移動だけでなく、源平合戦や織田信長の朝倉攻めで大軍が進軍するなど、歴史的な事件を支える重要な街道となりました。
しかし、江戸時代になると北陸道が米原経由となり、また京都と若狭を結ぶ、いわゆる鯖街道も最短ルートは比良山地を縦走する現在の国道367号線沿いとなることから、次第に湖西は主要街道としての地位は失われることとなります。このため、明治以降に建設された北陸本線や国道8号線、戦後開通した北陸自動車道などもすべて米原経由となり、国鉄の路線は長い間建設されませんでした。
国鉄に代わって湖西地域に鉄道を開通させたのが江若鉄道で、1931年(昭和6年)までに現在の浜大津―近江今津が開業しました。路線はほぼ現在の湖西線に沿う形で建設され、社名が示す通り、本来は近江と若狭を結ぶことを目的とした路線で、現在の福井県若狭町までの路線免許を取得していましたが、残念ながら実現することはありませんでした。
湖西地域は、東海道に沿った地域に比べて人口も少なく、また福井県への延伸も実現しなかったことから、地域輸送が中心となりましたが、それでも夏には湖水浴、冬にはスキーなど行楽客の姿もあり、蒸気機関車が全盛の時代にいち早くガソリンカーを導入するなど先進的な取り組みも行われていました。1960年頃のダイヤでは、浜大津ー近江今津の全線で概ね日中は1時間に1本程度、夏季の土曜の午後と日曜日は浜大津―和邇にさらにもう1本が運行されていました。
国の「予定線」で存在していた湖西線 具体化は戦後になってから
一方、湖西線の原案ともなる国営鉄道の計画が予定線として登場するのは、1922年(大正11年)に公布された改正鉄道敷設法で、それによると「滋賀県浜大津ヨリ高城ヲ経テ福井県三宅ニ至ル鉄道 及高城ヨリ分岐シテ京都府二条ニ至ル鉄道(滋賀県大津市浜大津より滋賀県大津市和邇高城を経て福井県三方上中郡若狭町三宅に至る鉄道 及び滋賀県大津市和邇高城より分岐して京都府京都市中京区千本二条に至る鉄道)」及び「滋賀県今津ヨリ沓掛附近ニ至ル鉄道(滋賀県高島市滋賀県高島市今津町今津より滋賀県長浜市西浅井町沓掛に至る鉄道)」と記載されていました。
江若鉄道の建設免許が下りたのは、湖西線の計画よりも3年早い1919年(大正8年)のことでしたが、建設計画としては全くの重複で、実のところ、国鉄の計画が実施される際は国に買い上げてもらうことが前提の路線だったようです。
湖西線の建設が現実味を帯びるのは戦後になってからで、北陸本線の短絡路線として注目されるようになります。1962年(昭和37年)には浜大津―沓掛(現在の近江塩津付近)が予定線から調査線へと昇格、南側の起点を山科駅に改めた上で、4年後の1966年(昭和41年)から順次建設認可が下りるようになりました。
湖西線の開業は1974年7月20日で、当初は普通列車(および東海道本線から直通する新快速)のみの運転でした。当初の目的通り京阪神と北陸を結ぶ優等列車の短絡路線として使用されたのは、翌1975年(昭和50年)3月からでした。
なお、江若鉄道は1961年(昭和36年)より京阪電鉄の傘下となり、大阪から京都三条・浜大津で乗り継ぐ行楽列車なども運行されていました。しかし、この頃より経営状況が悪化、京阪電鉄の支援のもと合理化などが進められましたが、湖西線の建設が決定したため、当初の予定通り建設用地を提供することで廃止が決定しました。
実際には、江若鉄道の約51㎞の路線のうち、湖西線建設用地として約33㎞が鉄道建設公団に売却されたものの、実際には使用されなかった土地も多く存在しています。また、江若鉄道の職員の一部は国鉄職員として採用されることとなりました。江若鉄道は湖西線の開業より5年早い1969年限りで廃止となり、会社は江若交通として現在に至るまで存在しています。