よく似ているけど 早期引退の101系と大量生産の103系 違いはあるのか?
1形式としては日本最多となる約3,500両が製造された103系。2025年4月現在稼働中の車両は、播但線に18両、加古川線に16両、筑肥線に15両の合計49両まで減少しましたが、かつて首都圏や関西圏をはじめ、北は仙台から南は福岡まで、日本のほとんどの都市圏で見ることができ、国電と言えばこの103系を思い浮かべる方も多いかと思います。
さらに、103系の前にはよく似たスタイルの101系が存在し、こちらも1957年(昭和32年)から実に1,500両以上が製造されました。従って、この「国電スタイル」の車両は全国で5,000両以上が存在したこととなります。
外観上はよく似たスタイルを持つ101系と103系ですが、製造開始は6年差にもかかわらず、事故廃車の2両と105系化改造された65両以外がJRに引き継がれた103系に対し、101系はJRに引き継がれた時点で残存率は約15%の224両。関東地区では1988年の総武中央・緩行線、関西地区では1992年の桜島線を最後に主要線区での運用は終了し、南武支線で運用されていた2両編成が2005年に引退したことで全廃となりました。
よく似た外観を持つ101系、103系ですが、どんな違いあり、どの点が短期廃車と長期運用の差を分けたのでしょうか。
101系 103系 外観の違い いくつかある判別点
まずは、101系と103系の外観の違いを見ていきましょう。両形式はほとんど同じに見えますが、判別点は存在します。
- 101系のほうが、103系より若干運転席窓が大きく、床面高さが低い
- 103系は、運転台下に通風口がある
- 103系の電動車には、戸袋窓上に空気取り入れ口がある
なお、103系は製造期間も長く、先頭車は1971年(昭和46年)よりシールドビーム化、1974年(昭和49年)より高運転台化されて101系とは全く異なっています。また、製造年次が進むにつれて改良も施され、最終グループでは103系の外観ながら201系に近い仕様が取り入れられるなど大きく変化しているため、ここでは主に初期車両についての判別点を挙げてみます。
まず前面スタイルを比べてみると、101系のほうが103系に比べ運転席窓の天地寸法が広くなっています。また、初期の103系には運転席下に通風口があることが特徴で、これが外観から101系と103系を判別するポイントとなります。なお、103系は冷房化の際にこの通風口はふさがれてしまい、鉄板で蓋をしただけのものから完全に埋められて見分けがつかなくなってしまったものや、新製冷房車ではそもそも存在していませんでした。

側面では101系のほうがやや床面高さが低く、後にクハ101から改造されたクハ103‐2000番台や、サハ101から改造されたサハ103‐750番台を組み込んだ編成ではその差がはっきりわかったのですが、混結編成はともかく、残念ながら101系、103系それぞれの編成を見ただけではさすがにわかりません。簡単に見分ける方法としては、103系では電動車の戸袋窓上に空気取り入れ口がついており、これが判別点となります。

外観はよく似ている101系、103系 最大の違いは設計思想
外観上は差があると言っても非常によく似ている101系と103系ですが、実は一番大きな違いは設計思想でした。
101系が高性能な車両を目指したのに対し、103系は汎用性を持たせることを目指した車両でした。このため101系は性能向上を見込んだ分製造コストが割高となり、さらに地上設備が車両性能に追いつかなかったという不運が重なったため、結局その性能を発揮することはありませんでした。103系はこの失敗を踏まえ、投入する線区を選ばず、地上設備の改良を行うことなく大量生産が可能な車両として設計されたため、その後の運用線区や期間にも大きな差が生まれることになったのです。
101系、103系がどうしてこうした設計思想を持つことになったでしょうか。
高加速、高減速性能を持つ101系 しかし、地上設備が追い付かず
終戦から10年が経過した1950年代半ばになると、日本経済の発展もいよいよ軌道に乗り、それに伴って首都圏への人口集中は激しさを増していました。これに加え、生活様式の変化により郊外の人口が急増、朝夕の通勤ラッシュが大きな社会問題となっていました。
古くから沿線開発の進んでいた中央線快速では、1950年代半ばにはすでに10両編成2分間隔のダイヤが組まれ、さらに沿線の開発が見込まれる中で輸送力の増強は頭打ちになっていました。将来的には緩行線の延伸やバイパスとなる地下鉄の建設が予定されていましたが、どれも10年単位の時間が必要でした。
そこで国鉄では、高加速・減速力を持った高性能な車両を投入して所要時間を短縮することで、単位時間当たりの輸送力を増強することとし、1957年(昭和32年)に試作されたのがモハ90系、後の101系でした。
101系は、モーター個々の出力は抑える一方で全車両に搭載する全電動車方式を採用、それに加え乗車人員に関わらず加速、減速力を一定に保つ応荷重装置を備えることで、10両編成で比較した場合、スペック上は72系(ただし72系は6M4T)の1.6倍の加速力を安定して発揮する性能を持っていました。

車体はそれまでの国電と変わり、72系の最終グループにも酷似した全金属性の車体を採用。72系の幅1,000㎜の片開き扉に対し、101系は幅1,300㎜の両開き扉となり、開口部の拡大で乗降をスムーズにしつつ、開閉時間の短縮を同時に実現しており、所要時間短縮にも大きな効果を発揮しました。茶色一色だったそれまでの国電に対し、中央線に投入された車両は明るいオレンジバーミリオンとなり、後にラインカラーが取り入れられるようになりました。
車内設備も一新、101系は両開き扉が片側4か所、その間に7人掛けのロングシートが並び、蛍光灯や樹脂製の化粧板、つり革の採用、ラインカラーの導入など、21世紀の今日に至るまでの通勤電車の基礎となりました。
しかし101系は、実際に運転してみると設計時には思いつきそうで気が付かなかった、思わぬ重大な欠点が明らかになりました。
全電動車方式の採用で編成単位では72系に対して格段に消費電力が大きく、当時の電力設備ではとても対応できないことが分かりました。このため、モーターの消費電力を落として使用せざるを得ず、せっかくの応荷重装置も使用中止となってしまいました。10両編成で比較した場合、出力を落とした影響で101系の10Mと72系の6M4Tで加速性能にほとんど変わりはなくなり、さらに10Mでは2両に1両搭載されたパンタグラフが架線の温度上昇を招くことも判明、これをきっかけに架線を二重化する必要にも迫られました。
さらに電動車の比率が高い分製造コストも著しく不経済で、最終的に1960年(昭和35年)までに6M4Tの10両編成となり、当初の高加速、高減速性能は失われてしまいました。
中央線快速に続き101系の次の投入線区として選ばれたのは、まだ環状運転の始まっていない大阪環状線で、4M2Tの6両編成となりました。次いで山手線に8両編成(当初は7両編成)で投入されることとなり、製造コストを下げるためこの際に4M4Tでの投入が検討されました。
しかし、4M4Tではモーターへの負担が大きくなり、加えて山手線のような駅間の近い路線では、惰行走行で放熱する時間も短く、機器類の発熱が問題となりました。この対策としては、高コストを承知で電動車の比率を上げるか、4M4Tとして出力や機能を大幅にカットした状態で走行する必要があり、72系を始めとした旧型国電よりも所要時間が増加することとなりました。結果的には、山手線8両編成は72系の5M3Tに対し、6M2T(7両編成の時代は6M1T)という電動車比率を高めた編成となり、コスト高が際立つこととなりました。
こうして101系は、計画であった全車電動車方式が不可能となり、本来の高加速、高減速は発揮できないこととなりました。かといって、電動車を減らした状態では機器への負担も大きく、電動車の比率を上げざるを得ず高コストとなり、さらに駅間の近い路線での使用は不向きという結果となり、国鉄では101系は汎用通勤電車として引き続き大量生産を行うには不適当という結論に達しました。
こうした経緯もあり、本来101系は比較的駅間の長い中央線快速に限定して投入する計画で、製造数も500両程度が予定されていました。しかし当時の乗客の増加ペースは凄まじく、両開き扉を備えた新型車両投入の効果は大きなもので、例え不経済で所定の性能が発揮できなくても車両投入が優先されたことから、最終的には1,535両が製造されました。
高度経済成長は始まっていましたが、せっかくの高性能電車を投入しても、それを実現できる電力がない、これが昭和30年代半ばの日本の実情でもありました。
経済性を優先した103系 通勤電車決定版となる
103系は、101系の失敗例を踏まえ、性能と経済性を両立させる車両として1963年(昭和38年)に試作車が製作されました。
車体はほぼ101系を踏襲したものの、103系では1両当たりの出力を上げることで編成中の電動車の比率を下げ、製造コストを下げるとともに、高加速力を諦めて、地上側の設備に改良を施さなくてもあらゆる線区に投入できる汎用性を持たせることとなりました。駅間の近い路線の使用を当初から想定し、モーターの放熱容量を上げることで、低速域~中速域の性能を上げることが想定されていましたが、後に投入された駅間が比較的長く高速運転を行う京阪神緩行線や常磐線快速でも最小限の改修でそのまま使用することができました。
103系は、こうして汎用通勤電車として全国の通勤路線へ投入されました。新幹線や特急列車のような派手な活躍や注目を浴びることはありませんでしたが、激増する通勤輸送を支えながら、高度経済成長の陰の立役者であったことは間違いありませんでした。
1970年代以降、通勤電車の冷房化が進められる中で、高コストで使い勝手もよくなかった101系は、国鉄時代に冷房化された車両も92両にとどまり、この時点で101系の将来が長くないことは既に予想されていました。実際に1978年(昭和53年)からは101系置き換え用として103系の製造が始まり、翌年には初の廃車が発生。1981年(昭和56年)からは201系の量産が開始されると、余剰となった103系で101系の廃車が推し進められます。
首都圏では、205系投入を巡る103系の転配で総武・中央緩行線に残っていた101系が引退。大阪地区では、207系投入による103系の転出で、最後まで残っていた編成単位の101系が1992年に引退し、主要線区での運用は終了しました。
101系はクモハ101+クモハ100の2連で運用が可能なことから、2両編成が必要とされた南武支線ではその後も運用が残り、JR化後には冷房改造も行われました。

ほとんど日本中で見られた103系も、鋭意改良が加えられ車齢の浅い車両もあったとはいえ基本技術は昭和30年代であり、JR化後は急速に置き換えが進行しました。
2006年には、101系の後を追う形で首都圏から引退し、2009年にJR東日本からも全廃。長らく使用されてきた関西地区でも、2017年の大阪環状線からの引退や、和田岬線からの引退は大きな話題となり、いよいよ最後を迎えようという晩年になって、往年よりもはるかに注目度が高まっています。

