大阪・京橋駅に爆弾が落下 大勢の市民が犠牲に
終戦前日の1945年(昭和20年)8月14日、大阪市は白昼の空襲を受けました。この日の目標は当時東洋一の工場と呼ばれた大阪陸軍造兵廠。場所は大阪環状線、学研都市線、京阪線の京橋駅のすぐそば、大阪城に隣接する位置にありました。この時、工廠を外れた爆弾が京橋駅に落下、京橋駅は壊滅的な被害を受け、大勢の市民が犠牲となりました。あまりの被害の大きさに、今なお犠牲者の正確な数は分かっていません。あと1日戦争が早く終わっていれば·····、こんな無念の声も聞かれる中、1955年(昭和30年)からは毎年8月14日に慰霊祭が営まれています(2020年はコロナ対策として縮小して実施)。
京橋駅一帯は重要工場だった
1945年(昭和20年)当時、大阪城から京橋駅、森ノ宮駅あたりまでは、陸軍の兵器工場である大阪造兵廠が広大に広がっていました。最盛期の従事者は6万人を超え(20万人が関わっていたとする資料もあります)、技術的にも規模的にも東洋一の工場と呼ばれていました。
日本への空襲が始まると、当然兵器工場は攻撃目標となりました。1945年(昭和20年)7月までに大阪は7回の大規模な空襲を受け、その度に造兵廠には爆弾が投下されましたが、被害は小さなものでした。そこで8月14日には、造兵廠を徹底的に破壊するため集中爆撃が行われることとなり、市街地に火災を発生させる焼夷弾ではなく、施設破壊用の爆弾が使用されることになりました。
この攻撃で700個の大型爆弾を受けた造兵廠は壊滅、さらに隣接する大阪城も一部が破壊、焼失する被害が発生しました。そして、被害はすぐ近くの京橋駅にも及びました。
終戦前日の空襲 犠牲者の数は今なお不明
京橋駅周辺には、確認されているもので4発の1t巨大爆弾が落下しました。高架ホームの城東線(現在の大阪環状線)にはちょうど上下線ともの4両編成の電車が入線したところで、乗客の多くは、上空からは見えない城東線高架下の片町線(現在の学研都市線)ホームに避難していました。爆弾のうち1発がこのガードを突き破って片町線ホームで爆発、避難していた大勢の人を吹き飛ばし、駅施設を破壊しました。
相当数の人が犠牲になったことはわかっているのですが、翌日に終戦を迎え、混乱した社会の中で適切な調査は期待する方が無理だったといえるでしょう。真夏の暑い最中で腐食も早いことから、遺体はすぐ回収されると同時に近隣の空き地で燃やされたそうです。軍人はもちろん、兵器廠に動員されていた中学生や女子生徒も作業に加わったそうです。
最終的には、身元の判明したものが236名(資料により210名とも)、しかし損傷が激かったものや、一家全滅などで身元不明の遺体は500~600体(資料により500~800体とも)と言われ、その正確な数はついにわからないままとなっています。当時は身元を明らかにするため衣服への記名や名札の携行が義務付けられていましたが、その確認すらままならないほどの悲惨な光景であったといわれています。
被害を受けた城東線は、桜ノ宮-鶴橋が不通となりましたが、8月23日に運転を再開しました。片町線については、運転状況を記録した資料が見つかりませんでした。
空襲から2年後の1947年(昭和22年)8月14日に現場に慰霊碑が立てられ、1955年(昭和30年)からは現場で地元の小学生を交えた慰霊祭が毎年行われています。