松川事件とは 未解決「国鉄三大ミステリー」の一つ

松川事件現場と供養塔社会
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松川事件とは 未解決のままの列車転覆事件

1949年8月17日3:09頃(当時はサマータイムが施行されていたため、現在の時刻に直すと2:09となる)、青森から上野に向けて走行中だった旅客列車が、福島県の松川駅約3㎞北の地点で脱線、先頭の機関車が横転し機関車に乗務していた3名が死亡しました。それに続く荷物車、郵便車、旅客車5両も脱線しましたが転覆は免れ、乗客乗員8名に負傷者が出たものの死者はありませんでした。

調査の結果、現場付近の線路をつなぐボルトとナットが緩められ、継ぎ板も外されていたことが分かりました。さらに線路を枕木に固定する犬釘も大量になくなっていた他、重さ1t近い25mのレールも外されていました。現場付近からはこれらの作業に使用したとみられるスパナとバールが発見されました。

外されたレールにより脱線転覆した機関車 乗務員3名が犠牲となった Wikipediaより

これが世にいう松川事件で、状況から故意に引き起こされた事故であることは明らかでした。直ちに刑事事件として捜査が始まり、事故から24日後の9月10日、別件で逮捕された人物がこの事件の容疑者として取り調べを受け、事件への関与を自供しました。この時の自供をもとに20人が逮捕、起訴され、1950年12月6日、福島地方裁判所は死刑5名を含め20名全員を有罪とし、仙台高裁への控訴審では1953年12月22日に死刑4名を含む17名が有罪、3名が無罪の判決となりました。

しかし、事故当初より政治的な背景が感じられたことから、国内でも様々な憶測が飛び交うこととなりました。捜査機関による証拠隠しなどが明るみとなったり、現場から発見されたスパナではボルトの取り外しは不可能であることが分かるなど、進むにつれて次第に不自然な点や無罪である証拠が取り上げあられる異例の裁判となり、事件そのものよりもその後の捜査や裁判、報道などを巡って国民の間でも大きな話題となりました。

差し戻しと上告を繰り返し、5回に及ぶ裁判の結果、差し戻し審で全員無罪となった判決を不服として上告した検察の上告審を最高裁が棄却、1963年9月22日に全員無罪が確定。戦後最大の冤罪事件とも言われるようになりました。

不可解な事件が立て続けに起こった1949年 後の「国鉄三大ミステリー」一つとなる

松川事件が起こった1949年の夏は、この事件を含めて後に「国鉄三大ミステリー」と呼ばれる不可解な事件が立て続けに起こった年でした。政治的な背景や、捜査機関や司法の不可思議な見解など、これらの事件は一連の流れに沿っているとの考えが主流になっています。

1つ目は1949年7月6日に起こった「下山事件」で、国鉄の下山定則総裁が出勤途中に行方不明となり、翌日常磐線北千住ー綾瀬で汽車に轢かれた轢死体として発見された事件です。

下山総裁は、自ら列車に轢かれた「自殺」なのか、あるいは他の場所で殺害されて運ばれた上で汽車に轢かれた「他殺」なのか、当時の科学では遺体からそれを断定することはできませんでした(当日は雨が降っており、現場に残っていたであろう証拠の大半が流されていたことも原因でした)。

周辺には血痕が残されている箇所もあり、また下村総裁の衣服には鉄道とは無関係な付着物があったことから、他殺と考える意見もある一方で、血痕は下村総裁のものと断定できず、鬱による通院歴もあったことから自殺とする意見もあり、捜査に当たった警視庁内部でも真っ向から対立します。1949年12月、捜査半ばながら公式には自殺とされ、他殺説をとる捜査員が次々と異動するという結果となりました。公式調査結果は発表されず、情報漏れという形で新聞や週刊誌に掲載され、誤りや改ざんが指摘される個所もありましたが、1964年7月6日には殺人としても公訴時効となり、未解決のままとなっています。

2つ目は下山事件から9日後の7月15日に発生した「三鷹事件」です。

この日の21:23頃(同様に現在の時刻では20:23頃)、中央本線三鷹駅に隣接する三鷹電車区(現在の三鷹車両センター)に留置されていた7両編成の電車が突然暴走、三鷹駅を横切り、車止めを破壊して市街地に突っ込み脱線転覆しました。この事故では、通行人など6名が死亡、20人が負傷しました。

三鷹事件翌日の現場の様子 通行人などに26名の死傷者を出した 走り出した電車は無人で、操作できないよう施錠されており、またデッドマン装置(ハンドルから手を離すと加速をしなくなるか、現在では非常ブレーキがかかる)をどのように無効としたのかなど様々な謎が残されており、単独犯では不可能とする見方も多い 共産主義に対抗するアメリカの関与が強く指摘されるなど、現在でも様々な憶測が飛び交っている 実行犯とされ死刑判決を受けた人物は、その後一貫して無実を訴えたが、いずれも再審請求は却下され、1967年に病死した 2011年には遺族が2回目の再審請求を行っているが、2019年にふたたび却下されている Wikipediaより

直ちに実行犯として合わせて11人が逮捕され、その後13人が起訴されましたが、犯行は人物Aの単独行動とされ、1955年に最高裁で死刑判決が確定しました。しかし、事故の状況からも単独犯では難しいことが問題となっていた他、裁判の進め方について今日でも批判があることに加え、Aに有利な証言の取り下げなど不審な点もあり、当時から真相が究明されたとは言い難い状態でした。

松川事件を含む国鉄三大ミステリー 当時の時代背景とは

松川事件を含め、後に国鉄三大ミステリーと呼ばれる事件には、いずれも当時の世相や政治色が濃く反映されているといわれており、これらが今日まで様々な説が立てられる原因ともなっています。

では、当時の世相とはどのようなものだったのでしょうか。

これらの事件が起きた1949年は、日本はまだアメリカの占領下にあり、政策にはアメリカの意志が強く反映されていました。

このころ、海外に目を向けると、ヨーロッパではドイツ連邦共和国(通称西ドイツ)が建国され、アメリカ・ソ連によるドイツ分断は決定的になっていました。アジアにおいても、毛沢東率いる中国共産党軍が蒋介石率いる中国国民党軍を追い詰め、中国本土は共産党支配による中華人民共和国の成立が目前となっていました。また、朝鮮半島も北緯38度線を挟んだ南北でアメリカ・ソ連支配地域に分断されており、一触即発の状態でした。

このように拡大する共産主義勢力に対抗するため、アメリカは日本の占領政策を180度転換します。それまではアメリカの属国として力を付けすぎないよう日本を支配するつもりでしたが、至急に経済を立て直して日本をアジアにおける共産主義の防波堤として利用するととなります。

具体的には、アメリカの援助で成り立っている日本経済を自力歩行できるよう回復させて復興基調に乗せるもので、非効率となっていた生産現場の大幅な合理化を行うことが必要とされました。

今でいうリストラが日本中で行われることとなり、その中でも、1949年6月に発足したばかりの国鉄では、職員数を10万人削減するという空前の人員整理が求められることとなりました。

そんな中、この年の衆議院選挙では共産党が議席を大幅に増やすなど、日本においても共産主義勢力が台頭し、労働争議と共産主義が結びついて社会は騒然とした状態、それが当時の時代背景でした。

初代国鉄総裁となった下山定則氏は、そうした人員整理の矢面に立ち、事件前日には第一次整理通告として3万人の解雇を発表したばかりでした。

アメリカの関与も噂されるも、三大ミステリーの真相はついにわからず

こうした背景を受け、松川事件についても犯人は人員整理に反対する勢力と、それに加担する共産主義者の仕業ではないかという見方が強まり、事件翌日には政府もそれを認める談話を発表しました。そして容疑者として逮捕されたのは、いずれも大量人員整理に反対していた東芝松川工場と国鉄労働組合(国労)の構成員でした。

また、下山事件においても、やはり犯人像として大量人員整理に反対する勢力が描かれたほか、三鷹事件についても、捜査当局は当初から共産主義者によるテロ行為という認識を示し、逮捕されたのは最終的に単独犯とされたAの他は共産党員10名でした(最終的にA以外は無罪となっています)。

最初から犯人像を特定するような国家権力の操作、不自然な裁判など、不可解な事後処理は、すべての事件に共通するもので、事件の根底にあるものは同一のものではないかという疑いは今日に至るまで根深いものです。また、共産主義の拡大を防ぎたいアメリカの意思を受け、共産党員を炙り出したり勢力を弱体化させるために事故は故意に引き起こされた、とする説もくすぶり続けています。

なお、松川事件については、全員が無罪となったこの後新たな捜査が行われることもなく、結局真犯人はわからないまま1964年に公訴時効となり、未解決となりました。事件現場付近には、慰霊塔(松川記念塔)が建てられています。

事故現場付近に建てられた英霊塔と、通過するEH800牽引の貨物列車 事故現場は松川駅から北へ3㎞で、英霊塔からは150mほど離れている 当時は単線で、現場は現在の下り線となる Wikipediaより

果たして真相はどこにあるのか、今なおわかっておらず、戦後の混乱期に発生したまさに「ミステリー」として今日に至っています。

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