京福電鉄‐通称「嵐電」に新型車両? 運賃値上げと設備投資計画を発表

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京福電鉄-嵐電が運賃改定 設備投資の増加で大人250円に

京都市内を走る京福電鉄、通称嵐電が、2023年4月に運賃値上げを行うことを発表しました。

嵐電では、スルッとKANSAIの導入に合わせて2002年にそれまでの区間制から200円均一運賃(大人、以下同じ)へと変更、その後2015年に210円、2017年に220円へ運賃改定を行いました。その間、2017年の西院駅の大幅改修をはじめ、北野線全駅のバリアフリー化、踏切設備の更新工事が行われてきました。本来であれば2022年度中までに山ノ内駅を除く全駅でバリアフリー化が完成する予定でしたが、コロナウィルス感染拡大による影響で一部に遅れが出ている模様です。

また、車両面でもモボ26・27の台車交換や、モボ502のパンタグラフ更新など改修が行われていました。

しかし、嵐電によれば、近年の原材料やエネルギーの値上がりで安全対策やバリアフリー化などの対策で設備投資計画が多額に上ることや、人材不足やそれに伴う人件費の増加で現行運賃では収支改善が困難と判断されたため、運賃改定を行うこととなりました。

運賃改定は2023年4月1日からで、現在の大人220円(小人110円)から大人250円(小人120円)となります。なお、通学定期は据え置きとなります。

嵐電に新型車両? 投入されれば20数年ぶり 淘汰対象車両は?

さて、今回の嵐電の発表では、運賃改定とともに今後の設備投資についての予定も併せて公開されています。

それによると、工事が延期となっていた西大路三条、太秦広隆寺駅に加えて山ノ内、嵐電嵯峨駅のバリアフリー化とともに、7両を車両更新することが述べられています。なお、2021年度の安全報告書では2両を車両更新するとされていたので、今回の発表で5両が追加されたことになります。

嵐電 山ノ内駅
バリアフリー化が発表されている山ノ内駅だが、見ての通り道幅も狭く、安全地帯も申し訳程度で、ほとんどの乗客は路肩で電車の到着を待つ このため、停留所両側には信号機のある横断歩道が設けられ、たとえ信号が変わった直後でも電車が到着すると赤になり車両の動きを止めるようになっている 嵐電は基本的に高床式のため、ステップもなく床面との差も大きい どうやってバリアフリーとなるんだろうか? Wikipediaより

嵐電の車両は、大きく分けて

  • 1920年代に製造された車両で、1975年に新製車体を載せ替えしたモボ101形6両
  • 1971年に製造され、2007年に一度廃車となったが、2008年に復活したモボ301形1両
  • 1980年代に、1920年代製造の車両から機器を流用して製造された嵐電初の冷房車モボ501形2両
  • 1990年代に、1920年~1950年代製造の車両から機器を流用して製造されたモボ611形、モボ621形、モボ631形、モボ21形計16両
  • 2000年に50年ぶりに新製された、嵐電初のカルダン駆動の2001形2両

の5つのグループに分けることができます。このうち、嵐電の発表では「車体製造から50年、電動機等は製造から90年以上が経過する車両7両を更新」とされており、まず当てはまるのは第一グループのモボ101形6両かと思われます。

嵐電 モボ102+104
淘汰対象となる可能性の高いモボ101形の102+104 製造は1929年(昭和4年)で、1975年(昭和50年)にポール集電のパンタグラフ化の際にこの頃新製されたモボ301型と同じ車体に載せ替えられた ちなみに形式名モボのうち、モはモータ付き、ボはボギー車を意味する Wikipediaより

また、あとの1両については、一度は廃車となり現在はラッシュ時や増結運用がほとんどとなっているモボ301形である可能性が高そうです。ちなみに、モボ301形は鉄道車両として日本で最後に新製されたポール集電車両としても知られています。

嵐電 モボ111形
更新前のモボ101形と同じ車体を持つモボ111形 同じ時期に製造されたモボ121形、戦後に増備されたク201形も同様の車体を持っていたが、モボ101形以外は更新工事から外れたため1997年までに全車廃車となった 車内灯がオレンジ色の管球で、木造車体であったこともあって夜になると独特の暖かさを感じる車両だった 車体強度の問題で冷房が搭載できなかったため、足回りの一部を再利用して車体を新製、モボ111形はモボ611形に生まれ変わっている Wikipediaより

分類の仕方によっては、第一、第二グループを嵐電スタイル、それ以降を新・嵐電スタイルと呼ばれることもあり、新型車両の投入によっては嵐電スタイルの車両が一掃される可能性もあります。

なお、各種の情報によれば、新型車両の投入は順次となっており、一気に旧型車両が淘汰される可能性はなさそうです。

モボ2001形は改正ブレーキを追加搭載 嵐電の新仕様となる?

これとは別に、モボ2001 形(計2両)を改造し回生ブレーキを設置することも発表されました。

モボ2001形は、2000年に投入された嵐電としては2023年現在最後の新製車両で、2両が在籍しています。

嵐電 2001形
嵐山本線開通90周年を記念して、2000年に2両が投入されたモボ2001形 嵐電初のカルダン駆動、VVVF制御車両で、その他の車両とは互換性がない モボ2001形を含め、嵐電は写真の旧標準色から京紫単色への塗装変更が進行中で、モボ2001もすでに変更済み 旧塗装は1936年(昭和11年)に採用され、翌年に登場した京都市電600形ともよく似た塗分けであった Wikipediaより

嵐電は長い間、車両の製造時期に関わらず性能を統一することとしていたため、1990年代に製造された車両でも、機器の再利用ということもあり吊り掛け駆動を採用していました。

モボ2001形は、そんな中にあって唯一VVVF制御を採用している車両ですが、その反面仕様が統一されている他形式との併結はできず、2両連結運転を行う際は必ずモボ2001形同志の運用となります。

また、VVVF制御を採用しているものの、回生ブレーキを装備していない珍しい車両となっています。回生ブレーキは、ブレーキをかけた際に走行エネルギーを電力に変えて架線に戻し、他の車両の走行エネルギーとするものですが、架線に戻した電力を消費する他の列車が少ないとブレーキ自体が失効してしまうという性質があります。嵐電では列車本数はそれほどでもなく、スピードも遅く回生電力を消費しきれない可能性があることや、路面区間でも安定したブレーキ力を得るため、敢えて回生ブレーキを搭載していませんでした。

今回、2001形の回生ブレーキ搭載に当たっては、回生電力を回収する装置も併せて設置され、回生ブレーキの失効を防ぐようになっています。また、2001形2両のためにこのような装置を設置することは考えにくいことから、今後の新型車両の投入に当たっては、省エネルギーに優れたVVVF制御と回生ブレーキを備えた車両が選ばれることが考えられます。

VVVF制御やカルダン駆動については、

の記事もご覧ください。

京都にしか路線がないのに、どうして「京福」? 京都と福井の関係

嵐電とは、京福電気鉄道の京都での通称で、読み方は「らんでん」です。もともと1910年(明治43年)に嵐山本線が開業した当初は嵐山電車軌道という会社であり、これを略して「嵐電」と呼んだのが始まりで、100年以上たった現在も北野線を含めて地元では「らんでん」のほうが通りが良くなっています。

京都のほかにかつては福井地区にも路線を持ち、これが正式名称である京福電気鉄道の由来となっていますが、これは京都と福井を結ぶ計画であったというわけではありません。

京福時代の福井駅に停車する三国芦原線と越前本線(現在の勝山永平寺線)の電車 福井地区では1970年代から路線の存続が危うくなっていたが、豪雪地帯という特性もあり、廃止に対する地元の反対も強く、結局事業者任せのままだらだらと赤字が放置されてきた このため、京福では経費削減に努めざるを得ず、安全対策も後回しにされてきた こうした経営環境が2000年代に相次いで重大事故を発生させる原因ともなり、安全に関する設備投資を行ってもとても回収できる見込みがないことから、京福電鉄としては廃止となった その後は地元が出資する第三セクターとして引き継がれることとなり、えちぜん鉄道として再出発している Wikipediaより

京福電気鉄道の前身は、京都電燈という電力会社でした。その事業開始は1889年(明治22年)で、全国でも4番目の電力会社でした。

1890年(明治23年)、琵琶湖の水を京都市まで流すための琵琶湖疎水が完成。この水を利用して日本初の水力発電所となる蹴上発電所が稼働すると、京都では当時としては豊富すぎる電力を得られるようになり、むしろ使用先に困るほどで、1895年(明治28年)には、日本で初めて京都電気軌道による電車の営業運転が始まりました。

京都電燈もまた、蹴上発電所からの電力の再配分や、自社発電所の建設により電力に余裕があったことから、電力の消費先として全国に送電を行うこととなりました。

繁華街を抱え夜の電気の使用量が多い京都では、日中の電力が余剰となることから、京都電燈は福井県の織物工業に目をつけ、工業利用で日中の利用が多い福井、繁華街で夜や週末の利用が多い京都と消費地を時間を分けることにより、効率の良い売電を行うことが可能となりました。

京都電燈では、さらに電力の消費先として鉄道経営にも乗り出すこととなり、福井では永平寺の参拝客が見込める越前電気鉄道(現在のえちぜん鉄道勝山永平寺線)、京都では嵐山電気軌道を開通させました。これが京福電気鉄道が京都、福井で路線を所有していた理由です。なお、電力会社が大量の電力を消費する鉄道を運営する例は当時としては珍しくなく、例えば江ノ島電鉄も電力販売の傍ら電車の運行を始めたものでした。

第二次世界大戦中が激化すると、国家が社会を統制しやすくするため、陸上交通を再編する陸運統制令と、電力会社を再編する配電統制令が施行され、鉄道会社と電力会社は半ば国家の命令により分離されることとなります。これにより、京都電燈の鉄道事業の継承先として1942年(昭和17年)に京福電気鉄道が発足、同年中には鞍馬電気鉄道(現在の叡山電鉄)や三国芦原電鉄(現在のえちぜん鉄道三国芦原線)、1944年(昭和19年)には永平寺鉄道(後の京福永平寺線で2002年に全廃)、丸岡鉄道(同じく京福丸岡線で、1968年に廃止)を合併し、営業キロは120㎞に及びました。しかし、同じ会社といっても路線がつながったこともなく、生い立ちも異なる路線ばかりで車両やシステムに互換性はありませんでした。なお、京都電燈の電力事業は、その後複雑な合併を繰り返し現在の関西電力の一部となっています(現在の関西電力京都支社の建物が、かつての京都電燈の本社屋でした)。

モータリゼーションによる利用低迷により、福井地区では大規模な路線の再編が行われ、1968年(昭和43年)に丸岡線が、1969年(昭和44年)に永平寺線の大部分が、1974年(昭和49年)に越前本線(現在の勝山永平寺線)の末端区間が廃止。京都地区でも1985年(昭和60年)には利用客の減少が続いていた叡山本線、鞍馬線が叡山電鉄として分離され、残るは京都地区の嵐山本線・北野線と福井地区の越前本線(現在の勝山永平寺線)と三国芦原線となっていました。

2000年12月、ブレーキを作動させるロッドが破損し、制御不能になった車両が単線区間に侵入し、正面衝突事故が発生しました。破損した車両の台車は廃車から流用された1920年代製造のもので、度重なる修理により破損したものとされています。乗客に死者は出ませんでしたが、故障車両の運転士1名が死亡、24名がけがをする事故となりました。

さらにこの半年後の2001年6月、赤信号を見落として発車した列車が対向列車と正面衝突する事故が発生。こちらも幸い死者は出ませんでしたが、25名が重軽傷を負う事故となりました。

わずか半年の間に2件の正面衝突事故が発生したことから、京福電鉄福井鉄道部に対しては国土交通省から運行停止命令が出され、翌日からバス代行となりました。

また、安全運行に関する業務改善命令が出されるに至りましたが、京福電鉄の福井地区では赤字の経営が続いており、改善命令に含まれる各種改良の費用が捻出できないとして福井地区の運転再開を断念することとなり、のちにえちぜん鉄道へと引き継がれました。

京都にしか路線がないのに京福電気鉄道という社名の由来は、こうした経緯によるものです。なお、2023年現在でも福井地区には、京福電気鉄道のグループ企業として、京福バスをはじめ京福を冠する関連会社がいくつか存在します。

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