急勾配で活躍した機関車 その1 板谷峠のEF71、セノハチのEF67

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EF67 TOMIXから6月に再生産

TOMIXから発売中の品番9183 EF67-100形電気機関車(101号機・更新車)が、6月に再生産されるようです。

TOMIX Webサイトより引用
https://www.tomytec.co.jp/tomix/products/n/9183.html

広島地区でいわゆるセノハチの補機として長年活躍してきました。各通販サイトでも予約が始まっています。2020年2月29日現在、amazonでは品番が9182と記載されています。ついで、というわけではありませんが、このEF67をはじめ、勾配用機関車を特集してみました。




山越との戦いだった鉄道黎明期と、戦後輸送量の急増

国土の約7割が山林の日本。開業以来、日本の鉄道は山越えとの戦いでした。21世紀になった今日では、土木技術の発達で長大トンネル、鉄橋の建設も容易になりましたが、かつてはループ線やスイッチバックで地形に合わせて山越えに挑んでいました。それでも急勾配を避けることは出来ず、牽引する機関車を増やしたり、最後尾から押し上げたりする姿が日本各地で見られました。かの戦前の超特急『 燕』も、丹那トンネル開通以前は後補機を付けて御殿場線を超えていました。

戦後になり輸送量が激増すると、のんびりと山越えをしていたのでは到底間に合わなくなり、電化や線路そのものの付け替え、車両のパワーアップなどでこうした難所は次第に姿を消していきますが、このうち奥羽本線の板谷峠、信越本線の碓氷峠、そして山陽本線の瀬野-八本松(通称セノハチ)は、JR化後も残った難所として、専用の機関車が設計されていました。これが板谷峠のEF71、セノハチのEF67、碓氷峠のEF63で、永きにわたって峠の主力として活躍しました。今回は、特殊装備も多いこの3機種を取り上げます。第一回目は、EF71、EF67の話題です。

奥羽山脈を越える難所、板谷峠

4度のスイッチバックで山を越える

山形県南部、太平洋側へ流れる阿武隈川と、日本海側へ流れる最上川を分ける分水嶺である板谷峠に鉄道が開通したのは、1899年(明治32年)のことでした。奥羽山脈を横切るこのルートは、30パーミルを超える勾配が続き、赤岩、板谷、峠、大沢と4駅連続でスイッチバックの続く難所でした。また、日本でも有数の豪雪地帯で、各駅の大きなスノーシェルターは今もなおこの区間が難所であることを示しています。

1905年(明治38年)、奥羽本線が全通すると、この区間は首都圏と山形、秋田を結ぶ大動脈として機能するようになり、数多くの急行列車や貨物列車が行き交いますが、後補機を連結してもスイッチバック線の有効長から1列車あたりの両数も制限され、板谷峠は輸送上のネックとなります。

いち早く直流電化へ そして交流電化へ転換

終戦間もない1949年(昭和24年)、輸送力向上と戦後復興策のひとつとして、板谷峠を含む奥羽本線の福島-米坂が直流電化され、同時にスイッチバック4駅を通過対応の配線へと変更、当時標準であったEF15が投入されます。しかし、連続勾配でブレーキを多用する結果、車輪の発熱によるトラブルが続出、後にモーターをブレーキとして使うよう改造されてEF16となり、1964年(昭和39年)には本格的勾配用機関車のEF64が投入されました。

1960年(昭和35年)、東北本線の交流電化が福島まで到達、これを受けてすでに一部が直流電化されていた奥羽本線も、交流で全線を電化することが決定します。そして1968年(昭和43年)10月、いわゆるヨンサントオ改正で交流電化が完成、この時投入されたのが、勾配用機関車のEF71でした。

初の勾配用交流機関車 EF71デビュー

EF71は交流用としては国鉄初の勾配用機関車で、出力は交流用としては国鉄最強となりましたが、どちらかというとモーターをブレーキとして連続使用する(走行エネルギーでモーターを回して発電することにより、その抵抗で速度を抑える仕組み)ために余裕を持たせた設計となっています。奥羽本線の本務機として同時に設計されたED78と極力共通の部品を使用、ブレーキ時のモーター1基当たりの負担を下げるためと、登坂時の空転防止のため6軸駆動となり、このためF級の機関車となりました。

寝台特急『あけぼの』の先頭に立つEF71 次位はED78
Wikipediaより

本来は汎用機ED78、板谷峠の後補機EF71として設計、運用されるはずでしたが、実際にはED78の一部を仙山線に割いたことにより、EF71が単機または重連で福島-山形を牽引したり、ED78とEF71がペアを組んで重連運用に就くことが常態化しました。EF71本来の活躍としては、出力不足のキハ80系や、当初トラブル続きであったキハ181系を使用した『 つばさ』、寝台特急『 あけぼの』の後補機として一時運用された程度にとどまりした。

山形新幹線開業で使命を終える

やがて旅客列車の電車化や客車列車、貨物列車の削減により、次第に活躍の場は減少します。JR化後は、わずか、2~3両程度の50系客車を牽引し、スイッチバックを超えていく非効率な運用が目立つようになりますが、勾配用機関車で他路線への転属が効かないこと、まもなく山形新幹線への切り替えで運行体型が変わることが決まっていたため、大きなテコ入れが行われることはありませんでした。1993年7月、山形新幹線開業で改軌されたこと、旅客列車の電車化で用途を失い、全車廃車となりました。

山陽本線の数少ない難所 瀬野本―八本松 通称「セノハチ」

山陽本線で例外的に生まれた難所

広島市安芸区と東広島市にまたがる、山陽本線瀬野本-八本松、通称「セノハチ」と呼ばれる区間は、1894年(明治27年)に当時の山陽鉄道の手によって開通しました。

現在の山陽本線にあたる山陽鉄道は、急勾配を極力避け、ほぼ全線にわたり10パーミル以下の緩勾配で建設されました。しかし、セノハチ区間は建設費の削減と建設期間の短縮のため、神戸方の八本松駅へ向けて22.6パーミルの上り急勾配が連続する難所となりました。このため、勾配下側に当たる瀬野本駅には開業当初から機関区が設置され、この区間を通過する列車の後補機が配置されました。

当初は蒸気機関車が配置され、輸送量の増大に伴って機関車も大型化。戦時輸送となった1941年(昭和16年)にはD51が、1943年(昭和18年)にはさらに大型のD52が配置され、旅客、貨物列車を問わず後補機として活躍しました。

戦後は引き続きD52が配備され、1962年(昭和37年)の山陽本線広島電化後も、専用機関車の配備がなかったことから、間合で使用される本線用のEF58やEF61に混じってD52も引き続き使用されました。

しかし、蒸気機関車の老朽化が進んだことなどから、セノハチの補機にも電気機関車を投入し、完全無煙化を行うことになりました。当初は新型機関車の投入も計画されましたが、資金的な問題もあり、東北、信越本線系統で余剰になったEF53とEF56を改造し、1963年(昭和38年)から新形式EF59として投入されました。流用ではありましたが、初めてセノハチ専用の機関車が誕生することになりました。

初の専用補機 EF59の活躍

EF59のセノハチ投入にあたっては、もともと高速性能に重点を置いていた性能を補機として必要な程度に切り替えた程度で、EF56に搭載されていた客車暖房用の蒸気発生器も取り外されました。ただ、連結する列車の種類にあわせて接続栓を増設したため、勾配上り側の連結器周りは非常に賑やかなものとなりました。

長編成の貨物列車には重連で、短編成の貨物列車には単機で運用についていましたが、旅客列車でも出力の低い151系や大編成の寝台特急などには単機で後補機として連結されました。 また、高速貨物列車や特急列車のように瀬野駅、八本松駅いずれにも停車しない列車もあり、この場合は直前の停車駅である広島駅から後補機として連結され、D52同様に八本松駅手前で走行中に切り離すための自動解錠装置も取り付けられました。

後補機運用につくEF59
Wikipediaより

こうして専用補機が配備されたセノハチでしたが、ベースとなるEF53やEF56は戦前に製造された機関車で老朽化も激しく、1970年代後半には置き換えが検討されるようになります。1977年(昭和52年)にEF60を改造したEF61を22両投入、EF59の置き換える予定でしたが、重連運用に不具合があり、8両が投入されるに留まりました。国鉄の財政悪化もあり、老体に鞭打ってEF59が引き続き使用されることになります。

老朽化EF59に代わり 「赤い」直流機EF67登場

1982年(昭和57年)、老朽化の限界に来ていたEF59に代わり、ようやく補機専用機関車としてEF67が投入されます。国鉄の財政事情と、旅客列車の電車化や貨物列車の削減で電気機関車に余剰が生じていたことから、新製ではなく在来機からの改造でまかなわれました。

EF67 0番台 神戸方のデッキ
Wikipediaより

まず1982年(昭和57年)、EF60を改造した0番台3両が登場、上り神戸方にはデッキと貫通扉が新設され、走行中に切り離しを行うための自動解錠装置が取り付けられました。100番台は、1990年に貨物列車増発とEF61置き換えのため、EF65基本番台をもとに5両が改造されました。改造はより小幅に抑えられ、デッキは簡略化、貫通扉もなく、自動解錠装置も設置されませんでした。このため、自動開放を行う運用は0番台の限定とされてきましたが、自動開放は2002年に廃止されたため、後に0番台も自動開錠装置は撤去されました。

EF67 100番台(更新後) 
Wikipediaより

両数的にはEF59の時代と比べ3分の1程度になりましたが、性能的には従来EF59が重連で運用についていた1200t牽引の貨物列車を単機で補機できる性能を持っていること、旅客列車は補機の必要が無くなったこと、貨物列車も昔と比べれば少なくなっていることから、これ以上増備されることはありませんでした。

貨物列車の後補機運用につくEF67 100番台
Wikipediaより

EF67の最大の特徴は、性能や運用の特殊性もさる事ながら、その塗装でした。直流電気機関車の標準であった青15号とクリーム1号の塗り分けではなく、急行気動車色の赤11号となりました。 運転席窓下のステンレス飾り帯も黄色に塗装されたために若干顔つきも変わって見え、 直流機関車としては文字通り異色の存在となりました。この赤11号塗装は、使用される広島県の県花であるモミジに倣ったもので、通称「モミジ色」と呼ばれることになります。

後継機は汎用EF210 EF67は数年以内に運用離脱か

EF67は投入以来セノハチ運用を外れたことはなく、同区間を通過する貨物列車の補機として長年活躍を続けていましたが、種車の投入からは40年が経過し、老朽化が進んでいることから、後継機として2013年にEF210-300番台が登場、同年に0番台が運用を外れ1両が保留機、2両が廃車となりました。

しばらくはEF210との共通運用が組まれていましたが、EF210-300番台は補機としてだけではなく、本務機としての汎用性を備えた機関車であったため、増備に従って運用が分けられることになりました。EF210の増備は2020年現在も進んでおり、今年度は316~318号機の製造が予定されています。このためEF67-100番台も次第に運用を減らしており、2020年現在2両が運用を離脱、残る3両も今後全般検査を受けないものとされており、数年以内に運用離脱となる見込みです。

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