急勾配で活躍した機関車 その2 碓氷峠のEF63

Nゲージ
スポンサーリンク

アマゾン タイムセール

人気の商品が毎日登場。

タイムセール実施中

スポンサーリンク

アマゾン タイムセール

人気の商品が毎日登場。

タイムセール実施中

峠のシェルパ EF63 製品化はKATO、TOMIXから

勾配機関車を取り上げる上で欠かせない存在なのが、「峠のシェルパ」として活躍したEF63でしょう。国鉄→JRを通して最急勾配のあった信越本線横川-軽井沢、通称「横軽」で、碓氷峠越えの補機として北陸新幹線開通まで永きにわたって活躍しました。

TOMIX Webサイトより
https://www.tomytec.co.jp/tomix/products/n/98031.html
Kato Webサイトより
http://www.katomodels.com/product/n/ef63_jr

実車は常に2両一組で使用されていたため、模型でも動力車とトレーラーの2両セットも発売されていますが、KATOでは単品でも発売されています。

古くからの難所だった碓氷峠

碓氷峠は、群馬県と長野県の県境に位置する峠で、標高は960m、太平洋側に流れる利根川水系と、日本海側に流れる信濃川水系を分ける分水嶺でもあります。古くから関東と信州を結ぶ主要なルートの一部ながら、同時に難所としても広く知られていました。

江戸時代になると、碓氷峠は中山道の一部として整備され、関所が設けられると共にいっそう主要道としての役割が強くなります。と言っても険しい道のりには変わりなく、道行く人々にとっては命懸けの道のりであったようです。ただ、江戸時代の間にも度々改良は行われ、いくつかのルートが存在しています。

明治になってもこの状況は変わらず、明治天皇すら徒歩で峠を超えたという記録があるほどでしたが、1886年(明治19年)には馬車の通行が可能となりました。

アプト式鉄道で峠越えへ 66.7パーミルの急勾配で建設される

明治になると、東京と新潟を結ぶ鉄道の建設機運が高まります。直線的に結ぶルートは、越後山脈を超えることが当時の土木技術では不可能で、高崎から北は大きく長野へ迂回するルート(現在の信越本線としなの鉄道)が採用されました。実際に建設に取り掛かったのも早く、1885年(明治18年)には上野から横川まで、1889年(明治22年)には軽井沢から直江津までが開業、残すは碓氷峠区間の横川-軽井沢のみとなります。なお、高崎から新潟を直線的に結ぶルートの実現は、清水トンネルの建設が可能になる1931年(昭和6年)を待たねばなりませんでした。

横川駅と軽井沢駅は、廃線当時の距離にすると11.2kmですが、標高387mの横川駅に対し、軽井沢駅は標高939mにもなり、1駅で550m余りを上り下りすることになります。当時は、スイッチバックやループ線などで大きく迂回して進むルートも検討されましたが、いずれも決定には至りませんでした。

ちょうどこのころ、ドイツからアプト式(ドイツ語ではabtと表記するるため、当時は発音ではなく読み方で阿武止=アブト式とも表現された)で急勾配を超える方法が伝わります。 アプト式とは、機関車に歯車(ピニオン)を取り付けそれを線路の間に設置された同じピッチのラックレールに噛み合せることで坂を上り下りするラック式鉄道の一つで、1882年にドイツで初めて採用されたものです。ドイツはもちろん、山岳国スイスでも既に使用例がたくさんあり、最終的には66.7パーミルという急勾配でアプト式を用いて直接峠越えを行うルートが決定しました。こうして1892年(明治25年)12月、18の橋梁と26のトンネルという当時としては大工事の末に横川-軽井沢が開通、同時に信越本線も全通しました。

今も残る旧線のアーチ橋

なお、日本ではラック式鉄道はアプト式しか存在していないため、歯車を用いて坂を上る方法をアプト式と呼ぶことが一般的ですが、正確にはラック式の一つの方法が、アプト式となります。

大井川鉄道のアプト式ラックレール 90度ずつずれた3条のラックレールが特徴
Wikipediaより
スイス ユングフラウ鉄道のリッゲンバッハ式ラックレール 
同鉄道は日本で「アプト式」と紹介されることが多いが、正しくは間違い
撮影:鉄道模型モール制作室

いち早く電化開業へ 電気機関車投入

しかし、ラックレール区間の最高速度は8㎞/h、両駅間の所要時間は80分で、機関車から発生する猛烈な熱と煙が連続するトンネル内に充満、乗務員を苦しませ、窒息などの被害も絶えませんでした。そこで1912年(明治45年)、官営鉄道(後の国鉄)幹線としては初めて電化されることとなり、所要時間は40分(49分との記録もあり)に半減、大幅な輸送力アップとともに乗務環境も大きく改善しました。

電化工事に合わせて建設された旧丸山変電所

電化当初投入されたのはEC40と呼ばれる機関車で、12両がドイツから購入され、重連で140tの列車を牽引することができました。ラック区間の最高速度は18㎞/hで、自転車並みの速度ですが、蒸気機関車時代と比べると大幅なスピードアップでした。

1920年(大正10年)、初の国産電気機関車となるED40が登場、完全無煙化を達成するとともに、翌年には重連プッシュプルによる230t牽引を行い、徐々にではあるものの輸送力増強が図られます。1931年(昭和6年)以降はスイスから輸入したED41ならびに国産化したED42(実際には違法コピーであったといわれます)が投入され、機関車4両により320t牽引が可能となりました。

ED42型電気機関車 30年以上にわたって碓氷峠の輸送を支えた
Wikipediaより

戦後は輸送量が急増 粘着運転への変更決まる

戦後になると、経済成長に合わせ国鉄の輸送量は激増、信越本線ももちろん例外ではありませんでした。しかし、この碓氷峠のアプト式区間がネックとなることに加え、戦前製のED42の老朽化も著しくなってきました。そこで、アプト式を通常の粘着運転に切り替えることが検討されます。

切り替えにおいては、勾配の緩い新線を建設する案も浮上しましたが、新型の機関車を開発することで現在の路線を活用することとし、1961年(昭和36年)に工事が始まり、まず1963年(昭和38年)7月に新線が単線で開業、同年9月30日をもってアプト式の旧線は廃止となりました。この時、碓氷峠専用の補助機関車として投入されたのがEF63で、併せて信越本線で本務機として使用できるEF62も登場しました。次いで1966年(昭和41年)7月に旧線を改良してもう1線が開業し複線化、碓氷峠の輸送力は大幅に向上しました。

峠のシェルパ EF63登場

協調運転で碓氷峠を下るEF63+489系
Wikipediaより

EF63は、碓氷峠での粘着運転開始に合わせて1963年(昭和38年)から投入された、碓氷峠専用の電気機関車です。重量は後のEF66やEF200を上回る108tで、車輪1軸にかかる重量も最大19t(急勾配による車体の傾斜に備え、台車ごとに偏って重量がかかる設計になっています)と、いずれも新性能機関車としては最大値です。66.7パーミルという急勾配で使用されるため、通常の機関車にはない多くの安全設備を持っていることが特徴です。

通常の圧縮空気を利用して制輪子を車輪に押し付ける空気ブレーキの他、下り勾配の速度対策として、モーターを発電機として使用し、その抵抗で速度を抑える抑速発電ブレーキを採用。抑速力を上げるためモーターの出力は当時量産が続いていた汎用直流機EF60より大きくなり、排熱用の通風フィルターも大型のものが採用されました。さらに急勾配で停止した場合に備え、圧縮空気を作り出すコンプレッサー用に大容量の蓄電池を搭載したほか、台車には強力な電磁石を搭載。非常時にはレールに圧着することで、勾配での滑り出しを防ぎます。仮に長時間の停車で滑り出しが発生しても、強力な発電ブレーキで強制的に停止する非常スイッチも装備しています。

さらに、下り勾配の貨物列車は25㎞/h、旅客列車は38㎞/hの制限速度を超えると列車を強制停止させる加速度検知装置も搭載され、万が一の事態に備えて多数の安全装備が搭載されました。

連結器を回転させることで、電車用の密着連結器、貨物列車用の自動連結器の両方に対応、連結器高さを調節する機能と合わせ、アダプターや控車なしであらゆる列車との連結を可能にしました。また、連結する列車に合わせブレーキ管接続用のジャンパ栓を非常にたくさん装備していることもEF63の特徴です。

EF63の特徴の一つ、双頭式連結器。左側にはたくさんのジャンパ栓が見える。
Wikipediaより

EF63は、旅客列車、貨物列車を問わず常に勾配の下側(横川側)に2両の重連で連結され、軽井沢方面へ向かう勾配上り列車に対しては後補機として、横川方面に向かう勾配下り列車に対しては制動補助として使用されました。

貨物列車に対しては、EF62が牽引する貨物列車であれば、牽引定数が400tまでに拡大され、輸送力の向上につながりました。

旅客列車に対しては、当初は80系を除き電車は8両、気動車は7両編成までとされ、こちらも大きく輸送力向上には貢献しましたが、使用される車両は下記の条件を満たした車両に限られました。

  • 急ブレーキの際に列車全体が前よりとなって連結器の破損や台車が浮き上がる事故があったため、これらを強化した車両であること
  • 編成全体で緩衝容量を高めること
  • 非常ブレーキの改良
  • 横揺れ防止装置の搭載
  • 空気ばね破損対策

これらは通称「横軽対策」と呼ばれ、車体の形式表示の横に●が書き加えられました。

碓氷峠を超える列車は、すべて勾配下側のEF63で制御され、連結されている列車は旅客列車も含め当初は無動力で通過しました。軽井沢方面への上り勾配列車の場合、安全や信号の確認は、進行方向から見て先頭にいる、補機を受ける列車の運転士が行い、専用の無線で後部のEF63に指示が伝えられます。この指示を受け、速度の制御やブレーキ操作は最後尾のEF63の後方運転台で行われました。

しかし、通過両数は増加したものの輸送力の不足は解消しないことから、1968年(昭和43年)からはEF63の操作で旅客列車側の動力を操作する「協調運転」に対応した車両の製造がはじまりました。これが169系、189系、489系の3形式で、形式の1の位が9になっているのが特徴です。これにより、碓氷峠通過の最大両数は12両となり、さらに輸送力増加が実現しました。

過去には事故も起きた 急勾配の恐ろしさ

これだけの安全装備を施していても、残念ながら事故を完全になくすことはできませんでした。1975年(昭和50年)10月28日午前6時16分頃、EF62機関車2両を回送するため、EF63+EF63+EF62+EF62の4両で横川へ向かって下り勾配を走行していた回送列車が制御不能となり脱線転覆、乗務員3名が重軽傷を負いました。

本来は貨物列車として25㎞/hで作動するはずの加速度検知装置が何らかの原因で作動せず、速度が大幅に超過。このためブレーキを掛けても制御不能となり、急カーブのトンネル内では車体が傾斜してトンネル壁に接触、トンネルを出たところで横転したものと見られています。

機関車4両の重量は合計で400t以上、それがほとんど走行抵抗のない線路の上を滑り降りてくるわけですから、その走行エネルギーは凄まじいものだったと予想できます。乗務員は最後の手段としてモーターを焼き切ってでも発電ブレーキをかける非常制動をかけていましたが、それでも列車の止めることはできませんでした。急勾配の恐ろしさを見せつけた事故となりました。

4両は現場で解体され、EF63は代替機として2両が新製されました。最終的な事故原因は不明のままで、加速度検知装置の強化も検討されましたが、結局見送られることになりました。以降、この区間が廃止されるまで同様の事故が起こることはありませんでした。

北陸新幹線開業 碓氷峠区間は廃止へ

こうしてEF63は、横川―軽井沢の碓氷峠を超える運用に特化し、この区間を往来する列車の補助を行いました。1997年に北陸新幹線が開業、運行上ネックとなりコストもかかる碓氷峠区間は廃止になり、信越本線の本務機であったEF62とともに用途を失うことになります。

短期間であるとはいえ東海道・山陽本線へ転属したことのあるEF62とは異なり、あまりに特殊装備が多く汎用性のないEF63は、横川―軽井沢の廃止とともに全車が廃車されました。

2020年現在、10両程度がカットモデルを含めて保存されており、そのうち「碓氷峠鉄道文化むら」では4両が動態保存されていて、一定の条件を満たせば一般人でも運転が可能です。

タイトルとURLをコピーしました