余部鉄橋に行ってきました
鉄道ファンでなくても、余部鉄橋の名を聞いたことがある人は多いでしょう。
京都から下関までを日本海沿いに結ぶ長い山陰本線の中でも、沿線のハイライトとして描かれることが多い余部鉄橋。特に、赤く塗られた鉄骨造りの武骨な旧橋は、鉄道雑誌のみならず山陰海岸の名所としてガイドブックなどでもよく目にしましたが、老朽化や安全対策のため、2010年にコンクリート製の新橋が完成。それと同時に旧橋は役目を終えました。
しかし、土木技術として貴重な存在であることや、観光資源として活用するため一部が保存されることとなり、2013年には鉄橋展望台「空の駅」として整備され、エレベーターを備えた観光施設として整備されています。
鉄橋架け替え後の余部鉄橋はどうなっているのか。コロナも一応の落ち着きを見せていた2021年夏、余部鉄橋を訪れました。
旧橋の保存状況と開設された余部鉄橋「空の駅」
新橋の完成に伴って、鉄骨製の旧橋は解体されました。しかし、完全には解体されず、一部が往時のまま保存されています。
特に鳥取側の3基の橋脚と、それに支えられた橋げたは、「空の駅」として整備され、地上からエレベーターで上がることができ、一部ですが旧橋の上を歩くことができます。
歩道部分は平らに舗装され、周囲にはしっかり安全柵も作られており、安全に空中の散歩が楽しめます。高さ41mからの眺めはなかなか快適です。
橋のすぐ西側は、餘部駅です。
余部鉄橋を通過する列車と合わせ、古い写真で紹介されることの多い駅ですが、新橋の建設にあたり陸側へ若干移設されています。
余部鉄橋とは? いつどうやって作られたの?
まずは、余部鉄橋の基本データからです。
余部鉄橋は、山陰本線の鎧―余部間にある鉄橋で、京都起点から188.6㎞のところ、鳥取県との県境にほど近い兵庫県美方郡香美町香住区にあります。
一般的には余部鉄橋、または餘部鉄橋などと言われることが多いですが、「余部橋梁」が正しい名称です。初代の鉄橋は1912年(明治45年)の山陰本線香住―浜坂開業に合わせて完成、この時建設された赤い鉄骨で組まれた鉄橋が、2010年まで山陰本線の名所として知られることとなる初代余部鉄橋で、実に98年にわたり山陰本線の運行を支えることとなりました。
旧橋の高さは地上から約41mで、長さは約311mあり、これを11本の橋脚で支えていました。周囲からのよく目立つ赤で塗装され、鋼材の総重量は1010tにもなります。20世紀初めの当時の日本としてはかつてないほどの難工事でしたが、すでに多くの長大橋梁を建設していたアメリカの技術を参考に、実際に視察団を派遣するなどして慎重に準備が進められ、1909年(明治42年)に工事が始まりました。
海風をまともに受ける余部鉄橋では、後のメンテナンスの問題から鉄製かコンクリート製で意見が分かれましたが、結局建設費の安い鉄製の橋梁とすることに決定されました。
橋脚の鋼材はアメリカで製造され、船で太平洋を渡り門司に到着した後に積み替えて余部へ海側から陸揚げされました。これを組み立てすべての工事が終了したのは1913年1月のことで、1月28日には2両の機関車が試運転を行い、3月1日に営業運転を開始しました。これにより、山陰本線は京都―出雲今市(現在の出雲市)で線路がつながりました。
余部鉄橋はなぜ高いところに作られた?
ところで、余部鉄橋はなぜ明治期にわざわざこのような高い箇所へ作ったのでしょうか。
その理由は、山陰海岸の地形と当時の土木技術にあります。
同じように西日本の沿岸に沿って建設された山陽本線では、海岸から比較的離れたところまで平地が開けていたため、ほぼ全線にわたってトンネルや橋梁、急こう配を避けて建設されました。
しかし、山陰本線の建設に当たっては、海岸線すぐ近くまで急峻な地形が迫るところもあり、平地ばかりを選ぶことができませんでした。特に山陰本線東半分の最後の未開通区間となっていた香住―浜坂では、香住駅・浜坂駅は標高7mとほぼ同じながら、その間では連続した山越えを迫られることとなり、必然的にトンネルと橋梁の建設が必要となりました。
山裾にトンネルを掘れば、線路は平坦となり途中の谷越えも不要となる反面、トンネルの長さが比較的長いものになります。一方、勾配を設けてある程度の標高でトンネルを掘れば長さは短くできますが、途中で長谷川が作り出す高さ40m、長さ300mを超える深い谷を越える長大橋梁が必要となります。
この二つを検討した結果、当時の技術では長大トンネルよりも長大橋梁のほうが現実的と判断され、こうして架けられたのが余部鉄橋でした。
負の遺産の部分も… 小さな事故も絶えなかった
100年近い余部鉄橋の歴史には、事故など負の部分もありました。
余部鉄橋に関するの最大の事故といえば、1985年12月の余部鉄橋列車転落事故でしょう。
余部鉄橋を通過中の機関車+客車7両の列車が強風にあおられ、すべての客車が鉄橋下へ転落。幸い回送列車だったため旅客はいませんでしたが、乗務員1名と地上で転落に巻き込まれた5名がなくなりました。これをきっかけに余部鉄橋でも防風柵の取り付けなどが行われましたが、風に対する運行規制が強化され、列車の運休が増加することとなり新橋建設が具体化される原因ともなりました。
また、鉄橋から落ちてくる金属部品や氷の塊など、近隣住民からは迷惑施設と考えられる側面もあったそうです。
新橋の建設においては、これらの意見を踏まえ旧橋の全面撤去が考えられた時期もありましたが、貴重な遺産や観光資源として活用を図られることに決まり、2012年には橋のふもとに道の駅もオープン。道の駅を含め周辺には余部鉄橋の歴史を伝える資料館なども整備されています。