「津山まなびの鉄道館」へ行ってきました 扇形機関庫に転車台 310円で十分楽しめます

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津山まなびの鉄道館 基本データ 津山駅から徒歩約10分

兵庫県津山市は、中国山地に開けた数少ない平地で、古くから交通の要衝として栄えてきました。現在の津山駅も、津山線と因美線、姫新線の交わるジャンクションとして重要な役割を果たしています。

そんな津山駅のすぐ側に、かつての扇型機関庫を利用したちょつとした博物館があります。それが、「津山まなびの鉄道館」です。

まずは基本データのご紹介です。

津山まなびの鉄道館 基本データ

  • 住所:岡山県津山市大谷
  • 電話:0868-35-3343
  • 営業時間:10:00~16:00(入場は15:30まで)
  • 休館日:月曜日(祝日の場合はその翌日)、年末
  • 駐車場:無料
  • 入場料:大人(高校生以上)310円、小中学生100円、それ未満無料

場所は津山駅のすぐ近く、構内にありますが、駅本屋とは線路を挟んで向かい側にあり、大きく迂回する必要があるため、徒歩では10分ほどかかります。

それほど大きな施設ではありませんが、このご時世で入場料はたったの310円です。施設の大きさが違うとはいえ、鉄道博物館や京都鉄道博物館が移転、リニューアルを機に大幅値上げされたことを思うと、310円は大変ありがたい金額です。

津山まなびの鉄道館 扇形機関庫と転車台

津山まなびの鉄道館 転車台と扇形機関庫
津山まなびの鉄道館にて
撮影:鉄道模型モール制作室

ここの最大の目玉は、なんと言っても転車台と扇形機関庫です。

転車台を中心に3分の1ほどを取り囲む扇形機関庫は奥行き22mで、17線の収容スペースがあり、現存するものとしては京都の梅小路に次ぐ規模を誇っています。また、転車台は長さ18.5m、現在も作動させることができます。この日も、保存車の1両であるキハ28が引き出されて、回転実演を待っていました。

津山駅には、作備線(現在の姫新線の一部)の一部として開業した1923年(大正11年)から機関区が存在しており、この転車台は1930年(昭和5年)、扇形機関庫は1936年(昭和11年)に建設されました。蒸気機関車が現役のころは、機関車車庫としてはもちろん、検修を行うためのピットやクレーンも設置されていました。実際に津山機関区に蒸気機関車が配置されていたのは1965年(昭和40年)までとされており、その後も現役で使用され続けていました。

2007年より「懐かしの鉄道展示室」として不定期、予約制で公開されていましたが、2008年に登録鉄道文化財に、2009年に経済産業省の近代化産業遺産に指定されるなどしたため、2014年に閉鎖となった大阪の交通科学館の展示車両を含めてリニューアルが行われ、2016年4月に津山まなびの鉄道館として開業しました。

キハ58・DD51・キハ181 一昔前の山陰本線の主役に出会える

津山まなびの鉄道館 入場券
津山まなびの鉄道館 入場券は硬券タイプ
撮影:鉄道模型モール制作室

早速入場してみます。受付で入場券を購入します。入場券は昔の硬券スタイルです。

転車台には回転実演用のキハ28が据え付けられているのが、入口からも確認できます。扇形機関庫に収容されている車両を含めて、13両が静態保存されています。かつての山陰本線で主役を務めた車両群が多く、少し年配の方なら懐かしさを感じること間違いありません。

津山まなびの鉄道館 キハ181とキハ58
津山まなびの鉄道館 扇形機関庫で保存されるキハ181と並ぶキハ58 30年くらい昔に戻ったような光景 保存状態も良好で、今にも走り出しそう 轟音を立てて発車するキハ181は、一瞬息継ぎをする瞬間が好きだった
撮影:鉄道模型モール制作室
津山まなびの鉄道館 キハ58
キハ58の乗降扉に書かれた「自動ドア」の表示 かつては自動でないことも多かったので、自動扉には法律で表示義務があった 鉄道はもちろん、路線バスの扉にも表示されていた
撮影:鉄道模型モール制作室

一昔前の山陰本線の主役といえば、やはりキハ181とキハ58です。京都市出身の私は、子供の頃家の窓から山陰本線が見えており、両形式は特急『あさしお』急行『丹後』(キハ58はキハ40や50系、12系と共に普通列車でも運用されていました)として行き交っていました。大出力エンジンのキハ181は、接近するときから音も大迫力で、姿は見えなくとも音で簡単に判別できました。キハ58は晩年はローカル輸送がほとんどでしたが、やはり「急行」の表示幕が似合います。『丹後』はグリーン車キロ28を含む大編成で本数も多く、途中で分割併合する列車もあり、キハ58の本領発揮といった列車で、かつての急行列車全盛期の姿を色濃く残していました。

津山まなびの鉄道館 DD51
津山まなびの鉄道館にて 子供のころの山陰本線ではありふれた存在だったDD51 非電化区間の象徴だった 
 撮影:鉄道模型モール制作室

もう一つの主役といえば、やはりDD51でしょう。私が小さい頃は、京都口でも50系や12系がDD51に牽かれてのんびりと走っていました(さすがに旧客の時代は小さすぎて覚えていません)。また、深夜23時台から3時台の間、当時上下4本が通過した寝台特急『出雲』の先頭に立っていたのもDD51でした。非電化区間なら当たり前のように存在していた車両群が、いつの間にか博物館入りするような年月が経ってしまいました。

津山まなびの鉄道館 キハ52
国鉄色のキハ52 1995年頃、大糸線に撮影に行ったときにお世話になっているはずの車両で、25年ぶりの再会 当時は白に緑のストライプが入った大糸線色だった ワンマン単行運転だったが、2エンジン車ゆえスペースがなく、車内を含めていろいろ窮屈な作りだと思った記憶がある
撮影:鉄道模型モール制作室

山陰本線からは外れますが、これまた昔懐かしい国鉄一般色を纏ったキハ52です。キハ52は、1957年(昭和32年)から製造されたキハ20系列のうち、両運転台2台エンジン搭載車の形式です。製造年次は古いですが、単行運転できる2エンジン車はその後長く製造されず、基本形式が引退した後も使用されました。このキハ52 115は1965年(昭和40年)の製造で、最後は大糸線で活躍した後2010年に引退しました。1995年頃だったと思いますが、当時全盛だったシュプール号の撮影に大糸線に出かけたときに乗車した車両の1両だと思います(残念ながら写真はもうありません)。こんなところで再開するとは思ってもいませんでした。

マイナーな2形式も静態保存されています。

DE50は、DD51に代わる本線用大出力機関車として1970年(昭和45年)に1両だけが製造されました。2エンジン搭載でメンテナンス性に欠けるDD51の反省を活かし、大出力エンジン1基を搭載、DD51を一回り大きくしたようなスタイルが特徴です。しかし、使用想定線区が電化されたことや、国鉄の経営悪化と労使問題、そしてDD51がすでに安定した性能を発揮していたことから、量産には至りませんでした。5年ほど伯備線で使用され、故障のため10年以上休車となり、1986年(昭和61年)に廃車されました。

キハ33は、車齢は浅いものの大量に余剰になっていた50系客車を改造して1988年(昭和63年)に登場しました。改造費を抑えるため車体は極力50系客車を流用、ワンマン運転のためデッキは撤去されたものの外観はまさに50系客車にエンジンと運転台を取り付けたようなスタイルとなりました。

余剰車の有効利用のはずでしたが、改造してみると意外の高コストととなり、2両が製造されたのみとなりました。2両とも米子に配置され、山陰本線や境線などで運用され、トイレがないため必ず他形式と併結して使用されました。2010年3月のダイヤ改正で運用を外れ、1両は解体、1両が津山へやって来ました。

陰陽連絡の全盛期を伝える 急行列車の備品

扇形機関庫を後にすると、小さな展示室があります。津山駅など中国地方を中心に、かつて使われた鉄道用品の展示が行われています。

1枚目の写真は、実際の急行列車に使われたいわゆる「サボ」です。乗降扉付近の専用受けに差し込まれていました。津山駅を経由する姫新線や津山線、因美線のいわゆる陰陽連絡路線(山陰と山陽を結ぶ路線)には、1980年代頃まではたくさんの急行列車が運行されていました。高速道路が開通すると、長距離の乗客の多くはマイカーや高速バスへと移り、国鉄急行網は壊滅的打撃を受けることになります。特に中国自動車道の開通にあたっては、国鉄バスが高速バス(現在の中国ハイウェイバス)の運行を開始、これによって急行『みまさか』『みささ』など多くの列車が廃止へ追い込まれ、「国鉄は自分で自分の首を絞めた」と評される始末でした。

2枚目の写真は、津山駅で使用された発車案内票です。現在のように液晶やLED表示機のない時代、列車の出発が迫ると、改札口付近にはこのような吊り下げ札が掲げられるのが一般的でした。

因美線で実際に使われた 通票閉塞(タブレット閉塞)と腕木式信号

津山まなびの鉄道館 通票発券機
津山まなびの鉄道館にて
撮影:鉄道模型モール制作室

奥の部屋にあるこの機械、今の若い人には無縁のものかもしれません(私も実際に動いているのは見たことはありません)。これは、通票閉塞機と言い、通票閉塞(タブレット閉塞)区間に用いられる機械です。

通票閉塞とは、単線区間で列車が正面衝突しないように運行を管理する方法の一つです。この方法は全ての操作が人の手に委ねられるのが特徴で、列車本数の多い区間では早くから自動化が進められてきました。ローカル線であっても多くの人出を必要とすることから、近年急速に姿を消し、JR旅客路線からは2012年になくなりました。しかし、津山駅を起点にする因美線では、90年代後半まで通票閉塞が用いられていました。この機械は因美線高野駅に実際にあったもので、右は次の行き違い駅である東津山駅、左は同様に美作加茂駅へとつながっており、各駅にもさらに次の行き違い駅への閉塞機が置かれます。

列車を出発させるには、この閉塞機と専用電話で隣の駅と連絡を取り、まずはその区間を閉塞(1列車のみ通行可能な状態)しなければなりません。しかし、口約束だけでは間違う恐れもあります。そのため、この閉塞機にしまってある通票(タブレット)を取り出し、列車の運転士に渡すことになります。相手方の駅で閉塞機に通票を収納し、半開きで収納は確認できるが取り出しはできない状態でロックしてもらわないと、こちらから通票を取り出すことはできません。こうして、両方の駅から誤って通票が取り出されない仕組みとなっています。取り出した通票は、左上に見える円形のタブレットキャリアに収められ、運転士に渡されます。

通票が取り出せたら、次は信号の切り替えです。

これは津山線福渡駅で使用されていた出発信号機です。信号扱所でレバーを操作し、ワイヤーを引いたり押したりすることで、横に伸びた腕を上げ下げし、出発、停止を表示します。腕が真横に伸びたこの状態は停止、斜め45度下を向いた状態が進行です。後方に照明があり、赤青のフィルムが重なることで夜間識別用に使用します。腕木式信号機の根元にはおもりがついており、万が一ワイヤーが切れるなどで操作不能になった場合は、必ず停止表示になるようになっています。

ところで、なぜ通票はもっと持ちやすいものではなく、あのような形のキャリアに収めて運転士に渡すのでしょうか? その答えは通貨列車にあります。

通票を交換する駅にすべての列車が停車するとは限りません。優等列車や貨物列車が設定されている場合、その駅を通過するケースも存在します。その場合、その駅までの通票は走行中の列車の乗務員窓から輪投げよろしく通票受けに放り込み、さらに手を伸ばしてホームに設置されたそこから先の区間の通票を手づかみで受け取ります。その一連の作業がしやすいよう、このような輪っかの形になっているのでした。因美線の場合、急行『砂丘』が存在していたため、通票閉塞の終了までこの通票の受け渡しを見ることができました。

ほとんどがタブレット受け取りの様子だが、3:45ごろにタブレット受けへ放り込む様子が映っている。また、1:40ごろには駅員がレバーを操作して信号を切り替える様子も確認できる

所要時間は1~2時間程度 310円なら十分な見ごたえ

というわけで、ざっと展示物とその説明を書いてみましたが、ゆっくり目を通したとしても所要時間は1~2時間程度、310円としては十分な見ごたえがありました。ここに書いていない展示物や展示車両もまだまだあります。

また、夏休み中ということもあって親子連れが圧倒的に多かったのですが、予想外に単独客の姿もありました。

以上、津山まなびの鉄道館レポートでした。

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