意外と宣伝上手? なつかしい国鉄のテレビCMを見てみよう

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お役所仕事のイメージ? 実はヒット商品も多かった国鉄

国鉄と言えば、労働争議ばかりしているというイメージや、お固いお役所仕事で愛想も何もない、という印象をお持ちの方も多いと思います。

たしかに、接客態度は本当に客商売という気があるのかというほど悪いもの(もちろんそうでない方もいらっしゃったと思いますし、国鉄に限らず当時の接客は今と比べれば雑なものでした)でしたし、お客の需要より大人の事情を優先してよくわからない非効率な経営をしていたことも事実です。他の交通機関が台頭して、本来なら輸送改善に取り組むべき時期に労働争議に明け暮れて利用客は完全に置いてきぼりとなり、1970年代半ばには国民の国鉄離れは決定的なものとなりました。これを補うため毎年のように運賃値上げも行われ、これがさらに国鉄離れを加速させることとなり、1980年代には旧態依然な輸送体制や設備を更新しようにも、財政は火の車で利便性の改善どころか、老朽化した車両や施設の更新さえままならない状態になっていました。

しかし、1970年代後半になると、国会や国民の間でも真剣に国鉄改革についての議論が始まります。親方日の丸で絶対につぶれることのないと信じられていた国鉄が、本当に解体されてしまうかもしれない…、そんな不安が国鉄の上層部や現場にも感じられるようになったのか、その頃からは何とか国民の関心を引こうと、様々なキャンペーンや増収施策が展開されるようになりました。

存続がかかってようやく尻が火についたのか、短編成による頻発運転とパターンダイヤの採用、青春18きっぷやフルムーン夫婦グリーンパス、オレンジカード、ホームライナー、シュプール号など、時代とともに消えていったものもありますが、JRになってからも長くヒットする商品が次々と登場したのも、ちょうどこの頃でした。広告でも今までのイメージを捨てて国民に見てもらおう、親しんでもらおうという意気込みも感じられるようになり、宣伝上手な一面も感じられます。

そこで、動画サイトなどにアップされている、国鉄時代のテレビCMをまとめてみました。

万博終了後に輸送力を活用した「ディスカバージャパン」

1970年(昭和45年)、大阪で万国博覧会が開催されました。いわゆる大阪万博です。日本はもちろん、世界中から多くの観光客が訪れ、半年間の入場者数は実に延べ6,421万人に達しました。

国鉄の万博関連輸送人員は、半年間で延べ2,200万人に及び、多くの利用客でにぎわいました。また、万博輸送をきっかけに各地で輸送力増強や新車の投入も行われましたが、万博輸送終了後にこれらの施設をいかに使うかは、実は万博開催前からの課題として検討されてきました。

そして万博終了後の1970年10月から、国鉄の利用促進キャンペーンとして「ディスカバー・ジャパン」がスタートしました。

それまで旅行といえば団体旅行が中心であったものが、万博を機に家族旅行、グループ旅行といった少人数旅行の割合が増加。それに合わせ、個人旅行とりわけ女性グループの獲得に力が入っていたのも特徴で、女性雑誌との今でいうコラボ企画も組まれました。のちに若者に人気となるミニ周遊券が発売されたのも、このキャンペーンによるものでした。

そして、1970年当時のディスカバージャパンのCMがこちらです。

1970 国鉄 DISCOVER JAPAN

動画は2本立てですが、前半の1分は女性二人グループが旅行しているという設定のCMです。当時はまだ珍しい設定で、このあたりからも、女性客を取り込むことを意識していたことがうかがえます。

この頃は少し地方に行くとSLがまだ現役で走っていた時代です。走行中の車両の窓から乗り出してカメラを構えたり、旅館の窓に腰かけたりと、今なら炎上しそうなカットもありますが、昭和40年代はエアコンは一般的ではなく夏の間の窓は当然開けっ放しで、そもそも旧型客車は走行中も扉が開いているのが普通でしたから、そんなことは問題にならなかったのでしょう。

後半は、イラストレーターの大橋歩さんが中山道を訪れる様子をCMにしたもので、「モデルが観光地を訪れる」スタイルの観光PRの始まりとされています。女性雑誌がこの形態の記事を採用したこともあり、女性グループの観光客が全国各地で見られるようになりました。

こうしたCMの効果もあり、このキャンペーンはおおむね成功裏に終わったとされています。

国鉄のキャンペーンで最も有名ともいえる「いい日旅立ち」

国鉄のキャンペーンで最も有名といっても過言ではないのが、1978年(昭和53年)11月よりはじまった「いい日旅立ち」でしょう。キャンペーンソングとして採用された山口百恵さんの同名の「いい日旅立ち」も、今なお名曲としてあちらこちらで聞くことができます。

1978年CM 国鉄 いい日旅立ちキャンペーン

1970年代の始めから半ば頃まで、国鉄は労使問題がピークを迎えていたころでした。職場規律は乱れ、列車の運行は不安定で国民の国鉄に対する不満は募る一方で、国鉄の赤字問題が取り沙汰されるようになったのもこの頃でした。

しかしそんな国鉄も、1975年(昭和50年)のスト権ストを山場とし、極端な労働争議も次第に減少に転じます。また、国鉄の在り方を巡って分割や民営化を含めて検討されるに至り、経営側にも労働者側にも将来に対する危機感が浸透するようになりました。こうした中で、何とか国民に国鉄に振り向いてもらおうという願いを込めて始まったのがこのキャンペーンでした。

とは言っても、すでに国鉄の財政は火の車。そうやすやすと大々的なCMが流せるような状態ではありませんでした。そこで国鉄が目を付けたのが、国鉄の旅行ツアーを取り扱う日本旅行と、車両を発注する日立製作所。この2社に広告協賛を取り付けて費用をねん出する一方、社名PRのためキャンペーン名にこの2社の名前が入るという、何とも奇妙な名称になりました。

山口百恵さんを国民的歌手に仕立て上げたいという芸能界サイドの思惑もあり、キャンペーンソングのヒットと合わせて5年にも及ぶ長期キャンペーンとなりました。

CMでは、まだ製造後間もない寝台特急や、国鉄色の特急車両が登場。ちらりと映る国鉄色の単行ディーゼルカーも含め、国鉄時代の古き良き旅情を感じられるVTRになっています。また、女性の一人旅という設定であることからわかる通り、こちらも女性客の取り込みを強く意識していたことがわかります。

残念ながら注目度が低かった「エキゾチック・ジャパン」

「いい日旅立ち」にかわり、郷ひろみさんのキャンペーンソングに乗せられて1984年(昭和59年)から展開されたのが「2億4千万の瞳 エキゾチック・ジャパン」でした。

国鉄

1980年代になると、成田空港の開業などで海外旅行はぐっと人々に身近なものとなり、1984年の日本人の海外旅行客は延べ465万人で、1974年の233万人と比べると実に10年で2倍に増加しました。

こうした海外旅行人気の反面、労使関係の悪化や赤字経営で近代化が滞り、そのあおりで運賃値上げが繰り返された国鉄は、高速道路の延伸や国内空路の値下がりなどの影響も受け、日本各地で閑古鳥が鳴く始末でした。

すでに国鉄の分割民営化も決定的なものとなり、将来的の民営化に備えて国鉄の利用促進を図るとともに、海外旅行に対抗して国内旅行の魅力をPRすることを合わせたキャンペーンが展開されることとなり、これが「2億4千万の瞳 エキゾチック・ジャパン」でした。

キャンペーンソングの初披露は、新幹線の車内で行われるという熱の入りようで、この列車は報道陣や関係者を載せて実際に東京から新大阪へ向けて運行されました。また、郷ひろみさんのお父さんは国鉄職員で、1982年に1日駅長を務めた際に親子ツーショットで写真に写る姿がありましたが、その縁でキャンペーンソングの白羽の矢が立ったという真偽不明の噂もあるようです。

残念ながら1980年代半ばには国鉄の分割民営化とそれに伴う諸問題が大きな話題となり、こうしたキャンペーンが注目を浴びる場面はあまりありませんでした。1987年4月のJR誕生とともに、ひっそりと終わりを告げました。

「そうだ 京都 行こう」につながる 新幹線のCM

かわって、1970年代の新幹線に関するCMです。

この時代、新幹線と言えばまだ東海道・山陽新幹線以外にありませんでした。

その中でも、やはり京都・奈良は当時から定番の観光地であり、観光客向けのCMが数多く制作されていたようです。

先のキャンペーンCMが、旅行気分を高める抽象的な内容だったのに対し、こちらは目的地がはっきりと決まった内容となっています。

国鉄「ひかり&奈良・大和路」(1977年) 樋口康雄CM WORKS

何となく古都の神秘を感じされるというイメージで製作されている奈良へのCMです。

最後に画面に表示される「1枚のキップから」は、「ディスカバー・ジャパン」の終了を受けて1977年(昭和52年)から展開されたキャンペーンでしたが、残念ながらあまり振るわなかったようです。

CM 国鉄 ひかり&京都 佐藤B作 1984

こちらは、1984年(昭和59年)の京都旅行のCMです。

国鉄時代にも、シーズンに合わせてこのシリーズのCMは長期間制作されたようです。切り口と言い、CMの雰囲気と言い、ロングセラーとなっている「そうだ、京都行こう」の原型ともなったことが感じられるCMです。

地域密着をアピール 1986年11月ダイヤ改正のCM

1986年(昭和61年)11月には、国鉄最後のダイヤ改正が行われました。

国鉄分割民営化もいよいよ最後の法律が成立するのを待つだけとなり、JRという新しい会社の発足もすぐそこに迫っていました。

一時は国民にそっぽを向かれてしまった国鉄が、民営化をきっかけに利用者に寄り添う姿勢をアピールしようとしたのが、この1986年11月改正のCMでした。

1986年CM 西村知美 セーラー服 国鉄 現JR 新ダイヤ 日興証券

1986年改正は、翌年4月のJR発足に備えて準備された改正で、利用の振るわない列車や運行の非効率な列車がバッサリと切り捨てられ、特に急行列車は特急への格上げや列車そのものの廃止で1日当たりの列車キロで23,000㎞が削減されました。これに対して普通列車は全国で1日2000本以上の増発となり、並走私鉄や自動車、バスに逸走していた乗客の獲得に乗り出しました。

注目されやすい新幹線や特急列車ではなく、あえてローカル風景を取り入れることにより、JR発足前後にやたらとPRされた「地域密着」をアピールする狙いがあったものと思われます。

大胆シーンで注目 その後ロングセラー商品となった「フルムーン夫婦グリーンパス」

国鉄のCMでインパクトのあったものが、1982年(昭和57年)に発売開始となった「フルムーン夫婦グリーンパス」でした。

1982年CM 国鉄 フルムーン 高峰三枝子 上原謙

「フルムーン夫婦グリーンパス」につては、「なぜフルムーンパスは廃止? 鉄道旅行に魅力がなくなってしまったのか」でも取り上げたのでその内容については詳しくは触れませんが、この時CMに出演した上原謙さんは73歳、高峰三枝子さんは64歳とかで、バストを強調した入浴シーンがお茶の間にはなかなかにインパクトがあったようです。

こうしたCM効果もあって、「フルムーン夫婦グリーンパス」は2022年まで続くロングセラー商品となりました。

なんと、労働組合がCMを作っていた… 国鉄労働組合の分割民営化反対CM

分割民営化に関連してCMを作成していたのは国鉄だけではなく、なんと労働組合である国鉄労働組合、通称国労が制作したCMもありました。このあたりにも、国鉄の労働組合の組織力の高さと大きさがうかがえます。

まあ、国鉄分割民営化に至ったのは君たちのせいじゃないか…、という突っ込みはさておき、再三にわたる順法闘争やスト権ストで利用者置き去りのまま好き放題を繰り返し、国鉄を分割民営化止む無しの世論を醸造しておきながら、今更こんなCMを流しても残念ながら世間の目は厳しいものでした。

懐かしの動画 「守ろう、国鉄」 寝台特急 出雲編

しかし、昨今のローカル線や地方の切り捨て、新幹線開業によるネットワークの分断、長距離列車や会社跨ぎ列車の廃止など、分割民営化当初の懸念材料は見事に的中する結果となりました。今となっては、誰が将来を見据えていたのかはわかりませんね。

以上、動画サイトで見つけた国鉄時代のCMでした。こうしてみると、国鉄もなかなかにCM上手だったように思いますが、皆さんはいかがでしょうか。

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