10系客車 グリーンマックスから再販売
グリーンマックスから、往年の急行列車として使用された10系客車のキットが再生産されています。
今回再生産されたのは、10系客車のうち座席車のナハ10、ナハフ11、寝台車のスハネ16、オハネフ12、オロハネ10、そして食堂車のオシ16の6形式です。
いずれもエコノミーキットでの発売で、組立、塗装は自身で行う必要があります。また、台車、車両マーク等は別売りです。
10系客車はKATOからも商品化されていますが、単品は2022年11月現在再生産の情報はなく、一部のセット商品以外は入手困難な状況のようです。
KATOの10系客車を amazonで検索10系客車は、新製車の他に在来車からの流用車もある他、途中で仕様変更や改造による形式変更も多岐にわたっており、なかなか全貌をつかむのが難しい車両です。
今回グリーンマックスから再販売された10系客車のラインナップでも、新製時より存在しているのはナハ10とオハフ11のみ、オハネフ12とオロハネ10は冷房化による自重増大のためナハネフ10(さらに元はナハネ10)とナロハネ10から改称されたもので、オシ16とスハネ16は在来車からの流用車となっています。
近代化で長く国鉄車両の標準となった 鉄道史に残る10系客車
10系客車は、1955年(昭和30年)から1965年(昭和40年)にかけて製造された車両です。
当時の客車といえば木造車体のいわゆる旧型客車が中心で、内装も木製が中心の重厚な作りが当たり前でした。10系客車はこの概念を打ち破り、現在の車両に通じる基礎を築いた車両として知られています。
10系がモデルとしたのは、すでにスイスでは旧式化しつつあった軽量客車でした。
1930年代のスイスでは、自動車の発達で鉄道の乗客は減少傾向にあり、運営の効率化の一環として軽量の金属車両の開発が進められていました。1937年に最初の車両が登場すると、軽量化のおかげで1~2両を増結しても同じ機関車を用いて同じ時間で運行することができるようになり、あるいは加速力の向上で所要時間の短縮が可能となりました。
10系客車はこのスイスの軽量客車をモデルとし、これまでの旧型客車から一新した近代的な外観と、軽量化した車体が特徴でした。
10系以前の旧型客車は、車両縦長方向(線路と同じ方向)に台枠と呼ばれる太い梁を通し、その上に車体構造物を作ることで、台枠が車体を支える構造となっていました。10系ではこの梁を廃止し、その代わりに床を始め壁や天井などを組み上げて全体で車体の重量を支えるセミ・モノコック構造を採用、これにより車体の大幅な軽量化を実現しました。何やら難しい説明のような気がしますが、例えば段ボール箱は骨組みらしきものはなくても、組み上げてしまえば底面や側面、上面がそれぞれ負荷を負担することで箱の形状を保つのと同じ仕組みです。
セミ・モノコック構造自体は航空機などですでに実用化され、戦時中は日本の航空業界でも採用されていましたが、1952年(昭和27年)には西鉄で日本の鉄道車両としては初めて採用されました。
外観は、窓枠を補強するウインドウ・シル/ヘッダーが廃止され、金属製のすっきりとしたものになり、アルミサッシの大きな窓は一目で新型車両とわかるものとなりました。
車内の居住性を高めるため、特に寝台車や食堂車、2等車(現在のグリーン車)では限界いっぱいまで拡大したため、カーブで車両限界を逸脱しないよう裾絞りの断面を採用、これは今日に至るまで国鉄→JR車両の特徴となっています。
車内設備でも、木製や鋼が中心だった従来の車両に対し、アルミやプラスチックなど軽量材を積極的に採用し、ほぼ木製品を廃して全金属車体と呼ばれました。
10系客車は、分類上では旧型客車にカテゴライズされる車両ですが、写真でもわかるように外観や接客設備は刷新され、それまでの旧型客車とは一線を画していました。
その後の国鉄車両は、客車はもちろん電車、ディーゼルカーに至るまでほとんどがこの10系の影響を受けているといっても過言ではなく、10系客車は現代まで続く国鉄からJRの車両デザインの基礎を作り上げた、歴史的な車両となっています。
その一方で、新製時から冷房を搭載したオロネ10を除くと、サービス電源を車軸発電に頼っている点や、暖房は機関車から熱を供給するタイプであること、客用扉が手動なことなど、近代化されたスタイルとは一転してシステムは旧型客車と大きな変化はありませんでした。もちろん、これは雑多な形式の車両を1両単位で連結する当時の運用から考えれば当然やむを得ないことでしたが、同一形式で固定編成を組むことが前提の20系客車が登場するまでの過渡期的な存在とも考えることができそうです。
軽量化ゆえに劣化が目立った晩年 急行列車削減で早期に廃車も
10系客車は、ちょうど高度経済成長期で国鉄の需要が急増していた時期に登場したため、必要に応じて大量生産され、全国で急行列車として活躍することとなりました。
車両数を確保するため、戦前性の古い客車を流用した車両も多数製造され、改造車として形式区分されたオハネ17(後に冷房化されスハネ16に改称)は302両が製造され、オリジナルの10系客車よりも多数派の存在となっていました。
一時は特急列車にも使用された他、碓氷峠越えで編成両数に制限のあった信越本線では、従来の3両が10系なら4両まで許容されるなど重宝され、全国で輸送力増強に貢献しました。
しかし、10系客車の評判は決して芳しくなく、車両自体を巡る環境も恵まれたものではありませんでした。
軽量化に重点を置いたため、簡易な車体構造から車体の振動や揺れが大きく乗り心地は一世代前のスハ43に劣り、乗客からの評判も芳しくありませんでした。金属の溶接車体は、従来の木製車体と比べて断熱も不十分で、大きな窓とあわせて車内の保温性も悪く、3段寝台の上段は冬には凍える寒さだったという話も伝わっています。
さらに、軽量化のため採用した薄い金属板は劣化も早く、10年程度で早くも老朽化が進むようになりました。寝台車で採用された1段下降窓は、車体内部に雨水がたまり車体の腐食を早め、折り悪く国鉄の労使関係が悪化したことにより適切な保守工事も行われない例も多く、車体の劣化が急速に進みました。
これに加えて、国鉄では昼行の急行列車は原則として客車列車を廃止する方針であったことから、1960年代後半からは次第に活躍できる場も減少、1969年(昭和44年)に12系客車が登場すると、座席車はローカル列車へと転じることとなりましたが、1977年(昭和52年)に50系客車の製造が始まり、休車や廃車が進行することとなりました。
寝台車は1960年代後半からは冷房化も行われ、引き続き夜行急行列車として日本全国で使用されました。冷房改造に当たっては、屋根上に室外機を、床下にディーゼル発電機を搭載しましたが、軽量車体であるがゆえに重量増加は車体への負担も大きく、老朽化を早める原因ともなりました。
1970年代後半になると、新幹線の延伸や国鉄の合理化により夜行急行列車が激減。1972年11月には、北陸トンネル内で食堂車オシ17から発生した火災により死者30名を出す事故が発生(北陸トンネル列車火災事故、よろしければ「北陸トンネル火災事故から47年 深夜の『きたぐに』食堂車からトンネル内で出火 後に防火対策見直し」もご覧ください)、当初火元として疑われた石炭コンロを使用する食堂車オシ17は翌日から運用を中止、さらに10系客車の防災上の不備が指摘されるようになりました。14系や24系の登場で余剰になった20系寝台車が急行列車に使用されるようになると、老朽化の進んでいた10系寝台車は淘汰され、夜行普通列車として『山陰』の寝台車として使用されたのを最後に、1985年(昭和60年)で運用を終了しました。
10系よりも古いスハ43系やオハ35系がイベント列車用などでJRに引き継がれたのに対し、10系客車は事業用として2両が引き継がれたのみで、これも1995年に廃車となり、10系客車はすべて消滅しました。