八高線で旧型客車のイベント列車を運転 旧型客車って何?
2023年11月11日、JR東日本はDD51と旧型客車による「DD51 で行く八高線日帰り旅 ~沿線からまごころを込めて~」を運行しました。
当日は高崎駅発着で八高線を通り、小川町駅までを往復する行程で、高崎車両センターに所属するスハ43系の3両(スハフ42 2173-オハ47 2261-スハフ42 2234)をDD51 842とDD51 895がプッシュプルする編成で運行されました。
さて、このように各地でイベントに使用される「旧型客車」ですが、その定義とは何なのでしょうか? また、旧型客車にはどの形式の車両が当てはまるのでしょうか?
旧型客車とは? 20系登場以前の標準システム車の総称
旧型客車とは、一般的には1958年(昭和33年)から製造された20系客車より以前に設計された客車のことを指し、車両運用や構造で共通点のある形式の車両群を指す言葉、とされています。特に、20系客車以降は電源システムや運用の都合で編成に制限が付くことが多く、これらを新系列客車と呼ぶ一方で、それ以前の車両が必然的に「旧型客車」として区分された、との説が一般的です。
具体的な形式で言えば、1929年(昭和4年)から製造が始まり、20m級の鋼製車体を本格的に採用したスハ32系、その改良型で1939年(昭和14年)から製造されたオハ35系、そして戦後の1951年(昭和26年)から製造され、接客設備の近代化が図られたたスハ43系の他、終戦直後の車両不足の際に、在来車の改造名目で製造された60系客車や70系客車が含まれます。ただし、その後の改造で車種は実に多岐にわたり、例外も数多くするため、旧型客車は特定の形式を指すというより、後に述べるシステムにのっとった標準車両と理解するほうが簡単です。
なお、1955年(昭和30年)から製造された10系客車を含めるかどうかは議論の分かれるところですが、車体は近代化されたものの後に述べる運用システム自体は在来車と同様であり、旧型客車の範疇に含めることが多くなっています。
また、スハ32系以前の車両は、買収私鉄時代の車両などが使用され全国で統一されておらず、国鉄(戦前は鉄道省)が全国に統一車両で運用システムを構築したのはこのスハ32系とそのベースとなったスハ31系が最初であり、それ以前の車両は当時から「雑型客車」などと呼ばれていました。
旧型客車の特徴は? 共通するシステムと新系列客車との違い
20系以降の新系列客車と旧型客車の最大の違いは、その運用方法です。
20系客車は、同一形式で固定編成を組むことが前提で設計されており、これは現在では珍しいことではありませんが、この運用方法こそが当時としては珍しいものでした(12系や14系は、電源車が存在することや、自動ドアの扱いから制限がありますが、連結位置を同形式でまとめることで旧型客車と連結して運用することは可能です)。
しかし、旧型客車は連結する相手が同形式であるかどうかや、牽引する機関車が何であるかを問わず、1両単位で運用できることが特徴で、異形式間でも問題なく編成できることが前提となっており、以下のような共通システムを持っています。
- 電源車や集中発電機はなく、各車両に取り付けられた車軸発電機で自車に必要な電力のみを発電し、蓄電池を充電する(ただし、照明や放送などわずかな電力使用を想定しており、冷房など大電力を必要とする機器は基本的には使用できない)
- 暖房は機関車で発生させた熱を蒸気管を通じて客車に供給する(後の改造で機関車の電源を使用する電気暖房装置を搭載する車両もある)
- 各車両にブレーキ管を貫通させ、そのブレーキ管の圧力変化によって各車両のブレーキを作動させる「自動空気ブレーキ」を採用
- 最高速度は原則として95㎞/h
- 乗降扉は手動で、乗客が開閉する
ただし、これらは新造時のもので、後の更新工事や改造によって当てはまらないものも多数存在しています。例えば、JR東日本に在籍する旧型車両は、安全ためすべて自動扉改造が行われています。
旧型客車の運用とその終焉 現在の在籍状況
先にも述べたように、旧型客車は形式が違っても連結できることが特徴で、旧型客車で編成された列車は、様々な形式の車両で構成されていました。また、展望車や食堂車、1等車といった限られた例を除くと、優等列車用や普通列車用の区別がないのも特徴で、経年の浅い車両や状態の良い車両が多くの場合優等列車として使用され、その後は普通列車運用に転じることがほとんどでした。
外観は1929年製造のスハ32系から1951年製造のスハ43系まで非常によく似ていますが、細かな点では随時改良がくわえられており、特にオハ35系からは大窓になっているのが特徴です。
また、スハ43系からは接客設備にも大きく手が加えられ、特にこれまで「安いんだから文句を言うな」と言わんばかりに冷遇されてきた3等車(現在の普通車)の設備が大きく向上しました。
1列配置だった車内灯が2列となり、夜間でも客室内が明るくなったほか、ボックスシートのシートピッチが1470㎜となり、後の113系の1420㎜(登場時)よりも大きくとられて居住性が向上、また便所使用知らせ灯や栓抜き、洗面所のごみ箱設置など、のちの国鉄車両の標準となる設備も数多く採用されています。ただし、照明に関しては蛍光灯がまだ高価であったため、依然として白熱灯が採用されています。
1950年代からは、終戦直後に製造されたものや、戦後の酷使で損傷の激しかった車両を中心に「更新修繕工事」が実施されたほか、1963年(昭和38年)以降は近代化工事が実施されることとなりました。
具体的には、白熱灯を輪形蛍光灯に切り替えられ、車内化粧板が木製から樹脂製になるなどし、更新車は区別のため茶色から青色塗装に変更されていますが、更新対象車両も多かったことから、更新時期によってはさまざまなバリエーションが誕生しています。
ただ、更新工事を実施しても、基本となる設計は戦前のままであり、1955年に10系客車が登場すると陳腐化は避けられませんでしたが、軽量化に重点を置いた10系客車の評判は必ずしも芳しくなく、状態の悪化した10系客車をスハ43系で置き換えるという事態も発生しました。国鉄では動力近代化の一環として客車列車の削減を進めていたため、寝台特急用としては20系が製造されたものの、一般客車としてはその後継となるべき車両はなかなか製造されず、急行用の12系客車が製造されたのは1969年(昭和44年)、ローカル用の客車に至っては、1977年(昭和52年)の50系客車の登場を待つ必要がありました。
こうした経緯もあり、旧型客車は日本全国で優等列車からローカル運用まで長きにわたって使用されることとなりました。優等列車から引退するのは1982年(昭和57年)11月改正で、東北・上越新幹線暫定開業により東北本線系統の優等列車自体が整理されたことや、全国で急行列車の削減紗進んだことにより、この改正によって列車そのものが廃止されるか、余剰となっていた14系に置き換えることで全廃となりました。
その後も地方都市圏やローカル線では普通列車として使用されていましたが、冷房化ができなかったこと、さらには手動扉の危険性などが指摘されるようになったこと、急行列車の削減で急行型車両に余剰が出ていたことなどから、1986年(昭和61年)改正をもって基本的には定期運用から撤退しました。
旧型客車最後の定期運用となったのは、兵庫県の和田岬線で、短距離の工場通勤輸送という特殊な運用をこなすためほとんどの座席を撤去した60系客車が運行されていましたが、1990年9月限りで廃止となっています。
それ以降はイベント用や復活運行で使用される機会も多く、2023年9月末現在はJR東日本にスハ43系5両と、スハ32系1両、大井川鐡道にSL列車用としてオハ35系が7両とスハ43系が10両、60系が1両、津軽鉄道にオハ35系が1両とスハ43系が2両在籍しており、さらにスハ32系改造の事業用車オヤ31型が越後トキめき鉄道に在籍しています。