今日11月6日 北陸トンネル火災事故から47年 深夜の『きたぐに』食堂車からトンネル内で出火 後に防火対策見直し

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北陸トンネル火災事故 どんな事故だった?

47年前の今日、つまり1972年11月6日は、北陸トンネル列車火災事故の日です。30人の死者と700人以上の負傷者を出したこの事故は、その後の鉄道車両やトンネルの火災対策に大きな影響を与えました。

北陸トンネルは、福井県の敦賀駅と南今庄駅の間にある、全長13㎞を超える長いトンネルです。

トンネルが開業するまでは、1896年(明治29年)の開通以来、山岳地帯を避け海岸の険しい地形を縫うようにして走っていました。この区間は眺望はいいものの、25‰の急勾配と4か所のスイッチバックが存在する難所で、もろい地形でたびたびがけ崩れが発生したり、冬には雪に悩まされたりと輸送上のネックになっていました。戦後になり輸送量が急増する中で、根本的な輸送力増強のため5年の歳月をかけ、1962年(昭和37年)にトンネルが複線電化で完成、同時に電化区間が関西から福井までつながり、北陸本線は大幅な輸送力増強が図られました。

しかし、全長が10kmを超えるトンネルながら火災対策はほとんどなく、1967年(昭和42年)には、地元の敦賀消防署から防火対策の不備が指摘されていました。しかし国鉄は「電化されたトンネルで火災は発生しない」という建前を貫き、消火設備はなく、緊急連絡用の電話も数百mという状態で、万が一の際の避難路や排煙設備も設置されていませんでした。さらに、「夜間運転の妨げになる」という乗務員からの意見で、トンネル内の照明は通常は消灯されていて、緊急時の避難は著しく困難なものでした。

火災が発生した急行『きたぐに』 事故の経過

1972年(昭和47年)11月6日1時04分、大阪から青森に向かっていた下り急行『 きたぐに』(EF70+10系15両 国鉄関係者30名乗客761名)は、2分遅れで敦賀駅を発車、北陸トンネルへと侵入します。トンネル走行中の1時10分ごろ、食堂車11号車で食堂車従業員が火災発生を確認、通報を受けた乗務員は1時13分、規定に従って列車を緊急停止させます。場所は敦賀側入り口から約5㎞の地点でした。

乗務員は直ちに対向上り列車の防護措置(線路と地面をショートさせる装置を取り付け、直近の信号を赤に変えて列車の運転を止める)を行い、消火作業を試みます。

既に乗客の大半は就寝後で、出火場所が無人の食堂車ということもあって発見が遅れたことが災いし、備え付けの消火器を使い切っても鎮火には至りませんでした。消火が不可能と判断した乗務員はさらに規定に従い、火災車両を切り離す作業を開始します。

しかしトンネル内は照明がなく真っ暗な状態で、火災車両からは猛烈な熱と煙が発生、トンネル内に充満し作業は難航します。どうにか火災車両の前後を切り離しましたが、1時50分ごろ、天井に設置されていた樋が熱で熔け落ち架線と接触してショート、送電が止まり文字通り進退窮まる状況になりました。

1時30分ごろ、暗闇の中何とか非常電話を見つけた乗務員が今庄駅、敦賀駅に救援を求め、1時40分ごろには国鉄対策本部が設置されています。しかし、敦賀側への消防への通報は1時51分、今庄側への通報は2時07分と事故から1時間近くが経過してからでした。通報を受けた敦賀消防は、2時ごろには敦賀側のトンネル入り口に駆け付けたものの、国鉄担当者が不在で消火、救助活動ができず、さらに消防が救援車の出動を要請しても、「国鉄管理局の許可が必要」と国鉄対策本部がこれを拒否するなど、混乱の中とはいえ国鉄の対応の遅さが後に指摘されています。

2時30分、ようやく救援のモーターカーの侵入許可が出て消防による作業が始まりますが、排煙設備も消火設備もなく、有害物質を含む煙と熱に阻まれ、逃げてきた人を救助するという消極的な方法をとるしかありませんでした。

救援活動を行った 対向列車急行『立山』3号

一方、北陸本線を大阪に向けて走っていた急行『立山』3号は、1時25分ごろ反対の今庄側から北陸トンネルに侵入、1時40分ごろ現場から約2㎞手前の木ノ芽信号場で赤信号のため停止します。これは先の列車防護によるもので、事故後避難中に対向列車にひかれ多数の死傷者を出した三河島事故の教訓が十分に生きた結果です。同時に、「異常時には列車をまず止める」という判断がトンネル火災には通用せず、被害を拡大した理由にもなりました。2時01分、信号が青に変わったため、運転士は疑問を感じながら徐行にて出発した2分後、歩いて逃げてきた『 きたぐに 』の避難客を発見、電車を停止させます。信号が青に変わった理由は今なお不明ですが、『 きたぐに』から脱出した乗客が列車防護装置を蹴飛ばしたとする説が有力です。『 立山』3号はこの場で運転を打ち切り、扉を開けて避難客の収容を始め、225人を救助しました。しかし、『 立山』3号の車内にも次第に煙と熱が侵入してきたため、乗務員はこれ以上の救助は危険と判断し、まだ助けを求める声が聞こえてはいたものの、列車をトンネル外まで後退させました。その後も困難の中救助活動は続けられ、最後の救援列車が敦賀駅に戻ったのは、事故から10時間以上がたった10時30分頃、『きたぐに』の車両を敦賀駅、今庄駅に回収したのは13時ごろでした。この事故は、乗客29名と乗員1名が死亡、714名が負傷するという大惨事となり、死者のうち29名が一酸化炭素中毒でした。

事故原因は配線のショートだった

直ちに火災原因の調査が行われ、最初に疑われたのが調理に使われていた石炭レンジでした。調理後の消火の不始末により火災が発生したと推定され、同様のレンジを使用していた食堂車は直ちに全列車で営業運転から外されました。また、喫煙所のたばこの不始末の可能性も疑われましたが、結局原因は喫煙所のシート下にあった暖房用ニクロム線が劣化、これに振動で外れたヒーターカバーが接触してショートし、周囲のホコリなどに燃え移ったものとされました。原因が判明した後も編成を外れた食堂車は復帰することはなく、このため夜行急行列車から食堂車がほとんど消えることとなります。

現代まで通用する火災対策の見直し

事故後国鉄は、それまでほとんど考えられてこなかった火災対策について見直しを行いました。

当時国鉄に20か所存在した、総延長5㎞以上のトンネルを「長大トンネル」とし、この他通過列車の多いトンネルを中心に、消火・連絡設備、救援体制の整備を行いました。車両側でも徹底した防火対策を行い、難燃材の使用や発電設備の自動消火装置の取り付けなどが行われました、また、世界的にも稀なトンネル内での実車を使った火災実験も行い、その結果「トンネル内での火災は、現場に停車せず脱出する」ほうが安全とされ、運転規定も改訂されました。この教訓を生かし、1988年(昭和63年)3月に上越線で発生した車両火災では、トンネルの多い区間を避けて列車を停車させて、乗客乗員全員が避難することができました。また、2015年4月には青函トンネル走行中の特急列車から発煙する事故が起こりましたが、この際も過去の教訓から設置してあった避難駅を利用することにより、全員が無事避難できました。

実はこの事故には伏線があります。事故3年前の1969年(昭和44年)、北陸トンネルを走行中の大阪行き寝台特急『日本海』の電源車から出火、運転規定では直ちに停車することになっていましたが、乗務員はトンネル内での停車はかえって危険と判断しトンネルを出るまで走行、その後消火活動が行われ犠牲者を出さずに済みました。当時のマスコミは乗務員を英雄として扱いましたが、当の国鉄は服務規程違反として乗務員を乗務停止処分としました。この件もあり、『きたぐに』の乗務員は規定に従いトンネル内で列車を停車させざるを得ないにあったことが推測されます。

こうした状況も踏まえ、多数の死傷者を出した責任を問い機関士と車掌の計2名が業務上過失致死傷罪で起訴されましたが、運転規定に従い最善を尽くしたとして無罪となりました。また、先の『日本海』乗務員に対する処分も撤回されています。

一方、消防の指摘にも応じることなく、運転規定の見直しも行わず事故を大きくした国鉄自体の責任は、ついにうやむやのままに終わりました。

過去には自動車トンネルでも大規模火災が発生

なお、鉄道トンネルだけでなく、高速道路でも防火体制を見直す大きな事故がありました。1979年(昭和54年)の東名高速日本坂トンネル火災事故がそれです。追突事故をきっかけにトンネル内で火災が発生、後続車両にその発生を伝える手段もなく、最終的に173台を焼失し、鎮火まで65時間を要しましたが、幸いにも追突事故以外の死者は発生しませんでした。スプリンクラーや排煙装置も全く役に立たず、後に消火装置や情報案内板の改良が行われています。

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