鉄道の空港アクセス輸送の歴史 ライバルから連携へ MaaSの浸透でさらに鉄道・航空の連携深まるか

空港アクセス鉄道輸送の始まり

Keisei Skyliner passing Higashi-Matsudo station

 

京成スカイライナー
wikipediaより

東京都心と成田空港を結ぶ京成『 スカイライナー 』が、10月26日のダイヤ改正で大幅に増便され、空港アクセスが改善されました。従来20~40分の不均等間隔で運転されていたものが、日中は20分間隔に統一され、JRの成田エクスプレスと合わせると毎時5本のアクセス特急が空港駅を発車することになりました。さらに、いわゆるLCCの需要を受けて深夜帯の運転も充実し、『 スカイライナー』だけで1日あたり23本もの増発となりました。

海外旅行やインバウンドの好調で、空港アクセスは充実の一途をたどり、今でこそ鉄道で空港へ乗り付けることも当たり前となっていますが、実はつい最近まで、特に1980年代までは、日本の空港アクセス鉄道は、実に貧弱なものだったのです。

 

初めての空港アクセス輸送は、羽田空港近辺に路線のあった京浜急行でした。この地区にはもともと穴守稲荷への参拝客を狙い、京急の穴盛線が存在していました。戦後羽田飛行場が連合国に接収されると、一部区間の縮小が行われましたが、1956年(昭和31年)に復活、このとき終点を「羽田空港」駅とし、初めて空港駅を名乗ることになります。1963年(昭和38年)には路線名称を「空港線」へと改称、空港アクセスを意識した路線となりました。しかし、この初代羽田空港駅は現在の天空橋駅付近にあり、後に小型バスによる連絡輸送もおこなわれましたが、本格的な空港アクセスには程遠い状況でした。

東京モノレール10000形

 

東京モノレール10000形
wikipediaより

日本初の本格的な空港アクセス鉄道の登場は、1964年(昭和39年)9月の東京モノレールの開業です。2週間後に東京オリンピックを控え、海外からの多くの関係者、観戦者などが利用する羽田空港(成田空港はまだありません)と都心を結ぶアクセス鉄道として開業しました。すでに建設用地に市街地が広がっており、全線高架のモノレールが採用されましたが、都心側のターミナルは建設反対運動に合い、当初予定の新橋から浜松町へと変更されました。その後も幾度となく北への延長が議論されていますが、ついに実現することなく現在に至っています。

東京モノレールの開業により地域輸送に徹することになった京急は、幾度となく羽田空港への本格的な進出を試みますが、長らく実現しませんでした。京急が羽田空港ターミナルビルへ乗り入れたのは、1998年のことでした。

成田空港のアクセス鉄道 新幹線・初代成田空港駅から現成田空港駅へ

1970年代になると、海外旅行や国内航空路線が一般的なものになり、空の便数も増加、三大都市では将来的に空港容量の不足が予想されるようになります。首都圏では、第2の国際空港として成田空港の建設が決まり、アクセスとして成田新幹線の建設、京成電鉄本線の延長が予定されます。空港整備と同時に鉄道の整備が盛り込まれるのは、この時からです。自動車の増加で交通事情が悪化、首都高速や阪神高速では渋滞が日常化し、バスのみに頼るアクセスの限界が見え始めたのです。

先に開業したのは京成電鉄でした。1978年(昭和53年)5月、成田空港開港に合わせ初代成田空港駅(現東成田駅)が開業します。『スカイライナー』の運転もこの時始まります。しかし、成田新幹線に用地を譲るため、当時の新東京国際公団からはターミナルへの乗り入れが認められず、止むを得ず1.1㎞離れた地点での開業とし、空港へはバスまたは徒歩で連絡という中途半端な状態でした。

成田新幹線橋脚

 

成田新幹線用に建設された橋脚(現在は京成電鉄が使用)
wikipediaより

その成田新幹線も、成田空港建設反対運動に伴う混乱や通過自治体の反対により暗礁に乗り上げ、1986年(昭和61年)に建設中止が決定。900億円を投じて東京駅や途中の路盤などわずかな工事を行っただけに終わりました。しかし、この時ターミナルビルに建設された空港駅予定地が、後の成田空港駅として利用されることになります。「世界一不便な空港」という不名誉な名称をつけられている状態に、当時の運輸大臣だった石原慎太郎氏の提案により、JRと京成の乗り入れが実現。1991年、この用地と施設を利用して第二代成田空港駅が開業、空港開業以来13年目にしてようやく本格的な鉄道アクセスが完成しました。

東京都心と空港は特急『成田エクスプレス』が運行を開始、都心側のターミナルは多岐にわたり、東京駅で連結の上成田空港を目指す運行形態は、登場当初からの特徴です。上野発の京成スカイライナーは、行き先を第二代の成田空港駅へ変更されました。なお、初代成田空港駅は、東成田駅へと名称を変更しました。2010年には成田スカイアクセス線も開業、最高速度160㎞/hで京成上野ー成田空港間を最速36分で結びます。

首都圏以外でも 鉄道・航空連携へ

当初は航空機は鉄道のライバルと考える動きも強いものでしたが、大きな転換を見せたのが1980年(昭和55年)の国鉄ダイヤ改正でした。

この改正で、北海道の千歳線に、国鉄初の空港直結駅となる千歳空港駅が開業します。それまで北海道の国鉄の列車の運行体系は、旅客は青函連絡船でやってくるという想定で、函館を中心に作成されていました。しかしすでに首都圏対北海道の旅客シェアは航空95に対し鉄道5という状態で、この改正から札幌中心の運行体系へと変更、航空、鉄道が一体となって旅客サービスを提供するようになります。

 

関西でも状況は首都圏と同じでした。伊丹空港へのアクセスはバスが中心でしたが、途中の阪神高速は年中渋滞が激しく、定時制では非常に頼りない状態が続いていました。また、手狭な伊丹空港に代わり、海上に新たな国際空港を建設する計画が持ち上がります

。これが関西空港で、1994年9月に開港しました。同時に空港連絡橋には線路が設置され、大阪側のターミナルからJR、南海の2社が当初より乗り入れを行いました。JRは広域ネットワークを生かして、京都から貨物線を経由し関西空港を結ぶ特急「はるか」が運転を開始、南海はそのスタイルが目を引いた特急「ラピート」が登場します。

長らく陸の孤島だった伊丹空港でも、1997年に大阪モノレールが開業し、鉄道での空港アクセスが始まりました。

 

中京圏でも、バスによるアクセスしかなかった小牧空港とは違い、2005年の中部国際空港開港に合わせ名鉄空港線が開業、名古屋駅を始め、名鉄沿線各地から鉄道アクセスが可能になりました。

 

福岡空港では、1993年に博多駅から地下鉄が開業、博多駅はもちろん、福岡市の中心天神駅からも10分足らずで結ばれました。

 

さらなる連携目指して

長らくライバル意識の強かった鉄道と航空ですが、日本において空港アクセス鉄道の整備が進んだのは1990年以降のことで、それ以降に開港した空港では開港時から、従来からある空港でも急速に整備が進んだことがわかります。

2010年代以降、両者の関係はさらに近いものになることも予想されます。MaaS(モビリティ・アズ・ア・サービス)という言葉を聞いたことがあるでしょうか。運営主体を問わず、マイカー以外の交通機関を1つの機関として捉え、シームレスに移動できることを目指すシステムです。例えば、事業者や手段を問わず、移動手段を検索できるサービスは既に提供されていますが、1つの画面で予約・決済が完了するところまで進めようというものです。まだまだ実験、実証段階にあるようですが、すでに鉄道会社と航空会社が手を取り合ってサービスを提供することは珍しくありません。アクセス輸送はもちろんのこと、今後はさらなる連携が期待できそうです。

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