TOMIXから近鉄80000系『ひのとり』が製品化 民鉄最大のネットワークを誇る近鉄特急とその歴史

Nゲージ
スポンサーリンク

アマゾン タイムセール

人気の商品が毎日登場。

タイムセール実施中

スポンサーリンク

アマゾン タイムセール

人気の商品が毎日登場。

タイムセール実施中

TOMIXから近鉄80000系『ひのとり』が製品化

TOMIXから新製品として、今年3月にデビューしたばかりの近鉄80000系『ひのとり』が発表されました。製品は6両編成をモデルとし、発売は11月が予定されています。

近鉄80000系は、近鉄特急の主力である名阪特急(大阪難波―近鉄名古屋)用の新型車両として2020年3月改正で運行を開始しました。

従来の近鉄特急車両とは一線を画した赤色ベースの塗装で、6両編成または8両編成とし、両端の2両は2列+1列のプレミアムシートとなっています。また、中間のレギュラーシートを含め運賃、特急料金に加え特別料金が必要となります。

プレミアムシートはシートピッチが1,300㎜をとなり、新幹線のグランクラスと同等となりました。レギュラーシートでもシートピッチ1,160㎜と新幹線のグリーン車と同等となり、全体として豪華な作りになっています。車内はwi-fiが利用可能なほか、全座席にコンセントを装備しています。

最大の特徴は、すべての座席にバックシェルが設けられたことです。「座席を倒したときに後ろの席の乗客が気になる」という声が多く寄せられることから、座席の後ろに仕切り板を設置。リクライニングを効かせても仕切りより後ろへは倒れないことから、後ろの席の乗客を気にすることなくリクライニングすることができる構造になっています。

2020年度中には11編成が投入され、名阪甲特急(速達タイプ)はすべて『ひのとり』に置き換えられる予定の他、2020年6月現在阪奈特急(大阪難波―近鉄奈良)の一部でも運用されています。

民鉄最大の特急ネットワークを持つ近鉄特急

近鉄(正しくは近畿日本鉄道)は、大阪府を中心に京都府、奈良県、愛知県、三重県にまたがる路線網を持つ大手私鉄の一つで、営業路線は500㎞を超え、JRを除くと日本最長の路線を持つ私鉄です。

沿線には大阪、名古屋といった大都市を始め、京都、奈良、伊勢志摩など世界的にも有名な観光地も多く抱えています。このため、1年を通じてビジネスや観光など幅広い需要があり、路線が長距離に渡ることもあって、民鉄では最大となる有料特急ネットワークを形成しています。

近鉄特急には特急専用車両が使用され、運賃の他特急料金が必要となり、自由席は連結されていません。『ひのとり』や『しまかぜ』『伊勢志摩ライナー』などのように専用車両が投入される場合もありますが、その他の場合は汎用型特急車両が使用され、異なる形式でも多くの場合は併結が可能で、需要に応じて2連から10連まで編成されます。

各系統は起終点の1文字を取って表され、大阪―名古屋間の場合は名阪特急、大阪―奈良は阪奈特急、京都-伊勢志摩系統は京伊特急、名古屋―伊勢志摩系統は名伊特急と呼ばれます。系統によっては停車駅パターンの違いにより、速達タイプは甲、途中停車タイプは乙として分類し、該当する系統では名阪甲特急などと呼ばれます。

特急が運行される区間は、路線長の8割にも及び、複数の系統が補完しあうことで乗車機会の増加を図っているほか、30分以内であれば回数制限なく乗り継げる(特急料金は通算)など、極めて利便性の高いものになっています。系統同士の接続も極めて良好な例が多く、ドイツやオランダのインターシティーのような特徴を持っています。

ただ、一方で営業キロが長いため閑散区間も多く、路線の維持のためには収益の高い特急に頼らざるを得ないという面も強いものになっています。

賢島駅ホーム 輸送密度の低い区間も多く、収益の高い特急が路線維持を支ていることがよくわかる光景

また、会社の成り立ちの違いから、南大阪線・吉野線系統は1,067㎜の狭軌、それ以外は1,435㎜の標準軌となっており、橿原神宮前駅では両者が対面するものの車両の互換性はありません。

近鉄特急 そのルーツの誕生

一口に近鉄といっても、後の会社合併によって現在の形になったもので、その成り立ちは複雑です。特に伊勢志摩方面への路線は、多くの観光客の需要が見込めたことから、大阪側・名古屋側からそれぞれ複数の会社によって建設が進められました。完成後は直ちに観光客の利用を前提とした長距離列車が設定され、今の近鉄特急へとつながることになります。1932年(昭和7年)には、上本町―宇治山田に料金不要の「特急電車」が運転を開始、同区間を2時間程度で結びました。

1938年(昭和13年)6月、関西急行電鉄(関急電)が関急名古屋(現在の近鉄名古屋)-桑名を開業させると、大阪電気軌道(大軌)・参宮急行電鉄(参急・現在の近鉄大阪線・山田線・名古屋線の一部)、関急電と異なる会社をまたいで大阪―名古屋のルートが完成しました。大阪側の軌間1,435㎜に対し名古屋側は軌間1,067㎜であったため、途中(当初は津市の江戸橋駅、後に松坂市の参急中川駅=現在の伊勢中川駅)で乗り換えが必要だったものの、名阪間を3時間強で走る特急電車が運行を開始、東海道本線を経由する官営鉄道よりも短い所要時間で結びました。これが現在の近鉄名阪特急のルーツと言えます。同時に名古屋―大神宮前(現在の伊勢神宮付近で、後の路線整理ににより現存せず)を2時間強で走破する特急電車も運行を開始し、名伊特急の原型ともなりました。

1930年代の大阪電気軌道・参宮急行電鉄の路線図 関西急行電鉄は未開業で、四日市から先は他社線(伊勢電気鉄道)で桑名が終点となり、名古屋へは通じていない 桑名から先の伊勢電気鉄道養老線(現在の養老鉄道)は未記入 汽車とは関西本線のこと この時代、京都線は奈良電気鉄道だったが、すでに直通運転が行われたせいか自社線として描かれている 吉野線はもともと吉野鉄道という狭軌の別会社で、大阪電気軌道と大阪鉄道(現在の南大阪線)で吉野への乗客誘致競争が行われた結果、同じ狭軌の大阪鉄道ではなく直通運転不可の大阪電気軌道と合併した
Wikipediaより

1937年(昭和12年)の日中戦争開始以降、国家を上げての統制が強まると、日本各地に存在する私鉄の統合が行われるようになり、関急電、参急は大軌と合併し関西急行電鉄となります。さらに1943年(昭和18年)には大阪鉄道(現在の近鉄南大阪線とその支線)とも合併、今に至る近鉄路線ができあがります。翌年には南海電鉄とも合併、近畿日本鉄道の名称が誕生しました。

戦争の激化で旅行は不要不急とみなされる一方、国民の戦意高揚を狙って伊勢神宮、橿原神宮、熱田神宮などへの戦勝祈願は奨励されたことから、関急では大いに利用客で賑わいを見せます。1938年(昭和13年)以降特急の運行は取りやめになりましたが、各地への参拝輸送のため各線で増発、スピードアップが図られました。しかし、戦局の悪化で長続きはせず、戦勝祈願もやがて禁止となり、参拝輸送も中止となりました。

1947年(昭和22年)10月、大阪上本町-名古屋で有料特急の運転を再開(名古屋線はまだ狭軌の為、伊勢中川駅で乗り換え)、名阪特急が復活しました。近鉄としてはもちろん、戦後の日本で初めての有料特急の復活でした。専用車両などあるはずもなく、比較的状態の良い車両をかき集めての運行で、所要時間も4時間以上でしたが、まだまだ混乱の中にあった世の中で、多くの人々が復興を実感したと言われています。

1950年代になると世相も落ち着きを見せたことから、戦前以上の輸送力増強が図られることになります。1951年(昭和26年)には南大阪線で、1956年(昭和31年)には奈良線で料金不要の特急が運転を開始、同年には線路改良で名阪間が最速2時間35分となりました。

1958年(昭和33年)、後の近鉄特急のイメージを定着させる画期的な車両が登場します。10000系初代ビスタカーで、日本ではもちろん、高速鉄道としては世界初の2階建て車両を連結していました。翌年には量産車10100系による新ビスタカーが運転を開始しました。この年には伊勢湾台風からの復旧を兼ねて名古屋線の改軌が完了、大阪―名古屋の直通運転が実現しました。この頃が名阪特急の全盛期となり、1963年(昭和38年)には名阪間のシェアの65%を占め、並行する国鉄を大きく引き離しました。

近鉄10100系 近鉄特急=2階建てのイメージを作り上げた
Wikipediaより

東海道新幹線の開業 スピードからネットワークへ

1967年(昭和42年)から製造された汎用特急車両12000系 以降の近鉄特急車両の基本となった
Wikipediaより

しかし、1964年(昭和39年)に東海道新幹線が開業すると、状況は一変しました。開業初年度の『ひかり』は新大阪-名古屋を1時間31分、翌年度からは1時間8分で結び、所要時間では全く勝負にならないことから、名阪間の大部分の利用客は新幹線へとシフトしました。このため新幹線との競争は避け、「新幹線で来た乗客を受けて輸送する」方針へと転換、これにともない、名古屋、京都、大阪から奈良、伊勢志摩、吉野などの観光地を結ぶ特急列車が順次設定されます。特に東京オリンピックや大阪万博などをきっかけに線路規格の向上、連絡線の建設、新型車両の投入などが行われ、1970年代初めまでには、概ね現在の特急列車網が完成しました。

1978年(昭和53年)、三代目となる30000系ビスタカーが登場、「近鉄特急=2階建て」のイメージをさらに定着されることになりました。

30000系ビスタカー(旧塗装) 近鉄特急=2階建てのイメージ作成を定着させた
Wikipediaより

名阪特急の復調と新型車両の投入 

1970年代半ばになると、国鉄の労使関係の悪化とそれに伴うサービスダウン、頻発するストライキ、相次ぐ運賃の値上げにより、国鉄を敬遠した乗客で名阪特急の利用が上昇に転じるようになります。一時は2両編成で運行されていた名阪特急も、次第に増結が進み1980年代半ばには4~5両程度で運行される例も増えてきました。ちょうど好景気で更なる需要が見込まれたことから、久しぶりに名阪特急のテコ入れが行われることになり、1988年(昭和63年)に21000系アーバンライナーが投入されました。ビスタカーに代わる近鉄特急の新たな顔として、従来の特急車両とは異なる塗装、デザインで、最高速度も120㎞/hに向上、鶴橋―名古屋を1時間59分で結び、初めて2時間を切りました。

21000系アーバンライナー 名阪特急への久しぶりの新車投入となった

名阪特急以外でも、従来の汎用車両に加え専用の新型車両の導入が進むことになります。その先駆けとなったのが、1990年に吉の特急に投入された26000系『さくらライナー』で、さらに1994年には23000系『伊勢志摩ライナー』がデビューします。『伊勢志摩ライナー』は、観光に特化した内装と、私鉄初の130㎞/hを行いました。

近鉄50000系『しまかぜ』 全車両がデラックス使用
Wikipediaより

2000年代以降は、消費の落ち込みやレジャーの変化などにより、近鉄特急全体の需要も落ち込むようになります。このため、乗り継ぎ制度を活かしてネットワークを維持したまま一部列車の削減も行われるようになります。その一方、より高級志向の需要にこたえるため登場したのが50000系『しまかぜ』が2013年に登場しました。特別料金が必要ながら、個室やデラックスシートのみの構成は『ひのとり』の原型となり、お召列車としてもたびたび使用されています。

一般車6200系を改造した観光特急『青の交響曲』
Wikipediaより

また、朝夕の通勤時間帯を中心に停車駅を増加させることで、近年は着席通勤の需要にも積極的に対応するなど、社会の変化に対応しながら、新たな役割も演じています。

近鉄特急は現在塗装変更が進行中 新塗装の22000系+30000系

狭軌の吉野線と広軌の大阪線を直通するためのフリーゲージトレインや、第三軌条の大阪メトロ中央線との直通運転を行うための2電源方式の車両の開発が発表されるなど、今後も話題が尽きないものと思われます。

タイトルとURLをコピーしました