全通90周年を迎える釧網本線  2002年2月の風景『流氷ノロッコ号』『マウントレイク摩周』

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釧網本線 2021年8月で全通90周年

釧路と網走を結ぶ釧網本線が、2021年9月に全通90周年を迎えます。今年は花咲線全通100年周年、釧路駅開業120周年の節目の年でもあることからこれらを記念して4月3日、4日に釧路駅でイベントが開かれ、大勢の来場者でにぎわった模様です。

また、釧網本線の主役ともいえる『くしろ湿原ノロッコ号』にも全通90周年のヘッドマークとサボが取り付けられています。これらは今シーズンの運転終了まで行われます。

2002年2月 釧網本線『流氷ノロッコ』『マウントレイク摩周』号の旅

1990年から2016年まで、この釧網本線で『釧路湿原ノロッコ号』の車両を利用して、冬季に運行されていたのが『流氷ノロッコ号』でした。

釧網本線は、網走―知床斜里でオホーツク海に極めて接近して線路が敷かれており、車窓から沿岸に押し寄せた流氷が間近に眺められるとして有名で、眺望性に優れたトロッコ列車で極寒体験をしながら流氷を楽しもうというものでした。

古い話になりますが、2002年2月27日、流氷観光のため網走を訪れ、その際釧路へと釧網本線で移動する際に『流氷ノロッコ号』を利用しました。また、トマムサホロエクスプレスを使用した快速『マウントレイク摩周』も利用していました。当時の行程の記録がないので詳細は分からない部分もありますが、オホーツク海や雄大な釧路湿原の車窓など、写真を頼りに当時を振り返ってみたいと思います。

50系改造『流氷ノロッコ号』 牽引はDE10

2002年の網走駅
2002年当時の網走駅 基本的には2021年現在とあまり変わっていない 縦型の駅名表示は珍しいが、付近の網走刑務所とあわせ「人生が横道にそれないように」縦書きにしてあるとか
撮影:鉄道模型モール制作室

まずは釧網本線の起点網走駅へ向かいます。『流氷ノロッコ号』は網走―知床斜里の運転ですが、1本前の普通列車に乗り、北浜駅へと先回りします。

北浜駅は、『流氷ノロッコ号』ではただ通り過ぎるだけですが、駅から海岸まではわずか20m程度しかなく、知る人ぞ知る流氷見学スポットで、「オホーツク海に一番近い駅・海岸まで20メートル」として知られています。ちょうどあまり時間をおかずに前の列車があったようです。

北浜駅からは、『流氷ノロッコ号』に乗ってまずは知床斜里を目指します。

流氷ノロッコ号 車内 
50系客車を改造した『流氷ノロッコ号』の車内 1両ずつ車内レイアウトが異なり、もっとも釧路よりに連結されたオクハテ510-1だと思われる 平日だったが、写真から見てわかるように結構な混雑で、おまけに全体的に窮屈な作りでちっとも落ち着かなかった 50系なのに、車内チャイムがなぜか「アルプスの牧場」だったのは鮮明に覚えている 当初は極寒体験として窓がなかったというが、この時には窓ガラスが設置されていた それでも乗客の服装から、暖房はなかったのかもしれない
撮影:鉄道模型モール制作室

やってきた『流氷ノロッコ号』は、50系客車を改造した車両で、写真によると3両編成+DE10の編成でした。

流氷ノロッコ DE10
流氷ノロッコ号
知床斜里駅に停車する『流氷ノロッコ号』 各種情報によると5両編成とあるが、この日は3両編成だった 機回しの手間を省くため、知床斜里行きは後位にDE10を連結した推進運転となる 2021年現在、DE10-1660も健在
撮影:鉄道模型モール

北浜を出発した『流氷ノロッコ』号は、その名に違わずゆっくりとした速度で進んでいきます。天気に恵まれたため、進行方向左側には、見事なオホーツク海、そして遠くに知床連山を望むことができました。平日にもかかわらず観光客でいっぱいで、車内備え付けのだるまストーブではスルメも焼かれていました。

『流氷ノロッコ号』と接続する『マウントレイク摩周』

トマムサホロエクスプレスによるマウントレイク摩周
キハ80「トマムサホロエクスプレス」を使用した『マウントレイク摩周』 最盛期、北海道には6編成のジョイフルトレインがあったが、スキー人口の低迷などにより本来の団体列車としての利用は減少、波動用としてこうした列車に使用される例も多かった バブル期に設計・製造されただけあって、内装はなかなか豪華だった 「トマムサホロエクスプレス」はこの年の10月で運用を終了した
撮影:鉄道模型モール制作室

『流氷ノロッコ号』は知床斜里までの運転で、ここから先は『マウントレイク摩周』が接続していました。

マウントレイク摩周
知床斜里駅のホームでは、列車の横でスケトウダラの干物が干されていた  この地方の名産で、オホーツク海からの冷たい風にさらすことで、うまみが凝縮されるらしい 
撮影:鉄道模型モール制作室

『マウントレイク摩周』は、知床斜里―釧路の運転で、「トマムサホロエクスプレス」を使用した列車でした。

5両編成、オリジナル塗装時代の「トマムサホロエクスプレス」 キハ80改造で足回りは種車のままなため、同じジョイフルトレインでもキハ183ベースの「クリスタルエクスプレス」などと比べると走行性能は格段に劣った
Wikipediaより

オリジナルの「トマムサホロエクスプレス」は、キハ80系を改造して1987年に登場、1988年には2両を増備し、食堂車キシ80を含んだ5両編成で、食堂車を除き全席がハイデッカー構造でした。当初は白ベースにオレンジ帯でしたが、1999年の『マウントレイク摩周』の運転に合わせ緑をベースとした塗装に変更されています。また、1998年には利用低迷により食堂車を含む2両が脱車となり、2002年には3両編成となっていました。

知床斜里を発車した釧網本線は、大きく南にカーブして海岸線から離れ、内陸部を走ります。車窓も海岸から農業地帯、そして山岳風景へと変わっていきます。

SL冬の湿原号 C11-171+C11-207重連
標茶駅では、折り返し準備中の『SL冬の湿原』号の姿があった 当日は気が付かなかったが、どうやらC11-171とC11-207の重連であったようだ 標茶駅には転車台がないため、この日のケースでは釧路行きが逆向き運転となる C11-207は保安設備の搭載状況やJR北海道の財政難で2014年に営業を終了、2017年からは東武鉄道で『SL大樹』として使用されている
撮影:鉄道模型モール制作室

山間部を走る列車は、やがて阿寒摩周国立公園の中を通り、さらに標茶を過ぎると、いよいよ釧路湿原へと入ります。

『マウントレイク摩周』は釧路行きですが、途中の釧路湿原駅で下車します。

釧路湿原駅は、文字通り釧路湿原の真っただ中にある駅で、1988年に臨時駅として開業、1996年には通年駅となりました。徒歩20分ほどのところに細岡展望台があり、広大な釧路湿原を見渡せるほか、徒歩5分ほどのところに細岡ビジターセンターがあり、無料の休憩スペースも設けられています。

釧路湿原からは、普通列車に乗って釧路へ。やって来たのは単行のキハ54で、車内はこれまでの観光列車と比べ一気に地元の空気へと変わりました。

釧路駅
釧網本線の終点、釧路駅 正確には1駅東の東釧路が終点となるが、すべての列車は釧路発着となる 
撮影:鉄道模型モール制作室

観光資源は豊富 でも経営難の釧網本線

釧網本線は、網走と釧路を結ぶ路線長166.2㎞の路線です。当初からオホーツク海沿岸と太平洋沿岸を結ぶ目的で建設され、当初は根室本線と接続する厚岸付近を終点とする計画でしたが、最終的には発展著しい釧路が終点となりました。

まずはオホーツク海側の網走から建設が始まり、1924年(大正13年)に網走―北浜が開業、釧路側からは1927年(昭和2年)に釧路―標茶が開業したのを皮切りに、両側から順次建設が進み、1931年(昭和6年)8月20日、最後に残った札弦-川湯が開業して全線が開通しました。

釧路湿原の中を行く釧網本線のキハ54 環境問題から湿原内に道路はなく、交通機関は釧網本線のみ というと聞こえはいいが、沿線人口は極端に少なく、路線の維持はさぞかし大変に違いないと思う ローカル線の維持には公的援助は欠かせない
Wikipediaより

オホーツク海沿岸と太平洋沿岸を結ぶ交通手段としてかつては重宝されましたが、沿線は人口に乏しく、また必ずしも流動の盛んな地域でもないため、1975年(昭和50年)の時点でさえ輸送密度は1,817人で、本線と名の付く純然たるローカル線でした。

国鉄再建法に基づく地方交通線の整理では、輸送密度だけでは第二次特定地方交通線の廃止基準に一致しましたが、例外条件である「平均乗車キロが30kmを超え、輸送密度が1,000人/日以上」にあてはまることから、廃止は免れることなりました。

浜小清水駅に停車するキハ54 自然条件は厳しく、沿線人口は少ない 加えて、近年は自然災害も多く、2016年、2018年、2020年に長期運休が発生した 今のところ被害を受けても即廃線という流れにはなっておらず、その都度復旧されている
Wikipediaより

民営化後は、流氷や知床など、沿線の豊富な観光資源を生かして観光路線として力が入れられ、1989年に『釧路湿原ノロッコ』号が、翌年には『流氷ノロッコ』号運転を開始。2000年からは『SL冬の湿原』号の運転も始まり、夏のみならず冬の観光客誘致も積極的に行われています。

しかし厳しい経営状態には変わりなく、2019年度の輸送密度は372人とJR北海道発足時の半分以下にまで減少、3億円の収入に対して営業費用は19億円で、実に16億円の赤字となっています。

JR北海道の所有するDE10やDE15は老朽化が進みつつあり、廃車の進行に伴って除雪で機関車需要の高まる冬に機関車不足となった このため、『流氷ノロッコ号』は2016年冬をもって廃止となったが、地元から観光列車存続の強い要望を受け、専用ラッピングのキハ54を使用して2017年冬より『流氷物語号』の運行が始まった しかし、やはり汽車旅には機関車+客車のほうがインパクトも情緒もあるのか、利用客は『流氷ノロッコ号』の半分程度にとどまっている
Wikipediaより

こうした状況を受け、2016年にはJR北海道が発表した「自社単独で維持することが困難な路線」の一つに挙げられることとなりました。具体的には、毎年の赤字額に加えて向こう20年間で施設の修繕・維持に33億円、車両の更新に16億円が必要とされており、財政難に悩むJR北海道は「自社単独では老朽土木構造物の更新を含め『安全な鉄道サービス』を持続的に維持するための費用を確保できない線区」としています。一方これを受けて北海道は、「観光客の利用だけで鉄道を維持していくことは難しいことから、関係機関が一体となって、観光路線としての特性をさらに発揮するよう取組を行うとともに、地域における負担等も含めた検討・協議を進めながら、路線の維持に最大限努めていくことが必要と考える」としています。

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