不運だった鉄道車両2 短期間で終わった路面電車の連結運転 京都市電2000型→現伊予鉄2000型

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不運な生涯に終わった車両 京都市電2000型→現伊予鉄2000型

製造されたものの、故障続きで、本来の性能を発揮できなかった車両。

 設計時と製造後のギャップが大きく、本来とは違った用途に使わざるを得なかった車両。

 言い換えれば不運だった車両もいろいろありますが、今回は京都市電2000型のお話です。

1977年(昭和52年)の七条線、河原町線さよなら装飾を施された、現役当時の京都市電2000型 京都市電最後の新造車で、路面電車全盛期の最終期にあたり、コンパクトにまとめられた無駄の少ない実用的なスタイルだった 連結運転という特殊な運用に備えた車両で、その能力を発揮できたのはわずか7年間 走行環境の変化はあまりにも早く、初期製造車でも実働は13年という短さだった
Wikipediaより

 六大都市の中で、メモリアル的に残された東京都電荒川線をのぞくと、京都市は公営路面電車の路線網を最後まで残した都市でした。1969年(昭和44年)に大阪市、1971年(昭和46年)に神戸市、1974年(昭和49年)に名古屋市で市電が全廃されましたが、京都市では1972年(昭和47年)初頭には市内中心部のネットワークは全て健在でした。路線の縮小が本格化した後も、当時は珍しかった市民レベルでの市電存続運動も巻き起こり、全線が廃止されたのは1978年(昭和53年)9月のことでした。

輸送力増強とコスト削減 2つの要求がなされた京都市電2000型

京都市電2000型は1964年(昭和39年)にデビューした、京都市電最後の新造車両です。

  当時は市電の利用客が最も多かった時代で、特に朝ラッシュは速やかな輸送力増強が求められていました。その一方で、日中の利用客の伸びは緩やかなことに加え、高度経済成長によるインフレにより人件費や運行にかかるコストは増加。1960年代以降、京都市交通局は赤字経営に陥ります。こうした状況下では、ラッシュ時に限定した大型車や連接車の投入は不経済で日中には供給過多となることから、2000型には輸送力増強とコスト削減の2つの役割が課されることになりました。

   これらに応えるため、2000型は朝ラッシュ時には2両連結運転を行い(この場合、運転士1人+車掌2人で運転士1人のコストカットが可能)、日中には車掌の乗務しないワンマンカーとして使用できるよう、両方に必要な装備を持って製造されました。車体は実用的な箱型にコンパクトにまとめられた全金属性で、路面電車全盛期の最後を飾るに相応しい近代的な車両でした。

 まず1964年(昭和39年)に2両が登場、在来車600型を改造して性能を合わせた2600型とともに3月から連結運転を開始、6月にはワンマン運転も開始します。翌年には増備車4両も製造されて2600型とともに12編成24両体制となり、連結運転やワンマン運転で活躍しました。2000型はその後も20両程度の投入が予定されていましたが、交通局の財政悪化により6両で製造終了となりました。

連結運転は7年で終了 路面電車は暗黒の時代へ 

 しかし、2000型の投入と時を同じくして、京都市電だけでなく路面電車を取り巻く環境は急速に変化しました。自動車が激増し路面電車は「邪魔者」として扱われるようになります。京都市でも、1965年(昭和40年)12月にそれまで禁止されていた自動車の軌道敷内走行が全面的に解禁さると、市電の定時制は急速に悪化、市民の間に市電離れが起こります。市電離れは自動車の増加につながり、それがさらに市電の走行環境を悪化されるという悪循環に陥り、1963年(昭和38年)には1日60万人あった利用客は、1969年(昭和44年)には39万人まで減少しました。それに加え、在来車のワンマン化が進行すると、連結運転はかえって非効率(同じ2両でも、ワンマンカーなら運転手2人ですむ上、連結作業も不要)となり、利用客の減少とあわせ連結運転は1971年(昭和46年)に中止となりました。さらに1970年(昭和45年)からは郊外線の伏見・稲荷線を皮切りに市電自体の縮小が始まります。

   連結運転の用途を失った2000型は、連結器を同じ京都市内の京福電鉄に譲渡、その他の車両に混じって使用されることになります。しかし、もともと6両という少数派であったこと、連結運転という特殊な運転形態を想定した車両であり在来車と異なる部分も多かったことから、以後は整備、運転の両面から持て余されることとなりました。そして1977年(昭和52 )年9月、市電全廃を待たず全車廃車となりました。京都での活躍は12~13年、本来の連結運転は6~7年という短さでした。

   2000型が登場したころは、路面電車の全盛期であり衰退期の始まりでもあり、そうした時期に特殊な装備を持って生まれたことが、そもそも不運であったといえるでしょう。

伊予鉄道へ移籍 第二の人生は穏やかにすごす2000型

伊予鉄道へ譲渡された、元京都市電2000型 伊予鉄道に移籍後も、車番に変更はなく伊予鉄2000型となった 標準軌の京都市電に対し、伊予鉄は狭軌であるが、車軸の取り換えだけで台枠はそのまま利用されている 前面は伊予鉄仕様に改造されたものの、特徴ある前扉や窓は2000型の面影を強く留めている 2021年現在、全車両がオレンジ1色の新塗装となり、車齢50年を超えても全車両が健在 伊予鉄時代のほうがはるかに長い
Wikipediaより

 京都市電としては不運な人生を送った2000型ですが、実はその後は活躍の場に恵まれることになります。まだ車齢も浅かったことから、保存車として京都に残った2001のほかの5両は、愛媛県の伊予鉄道に移籍、伊予鉄仕様に改造され、伊予鉄2000型として1979年(昭和54年)にデビューしました。そして、伊予鉄道移籍から40年が経過した2019年現在も全車が健在なのは嬉しい限りです。定期的に更新工事も受けていることから、車齢50年は越えているものの今しばらくは活躍が続くでしょう。第二の人生のほうがはるかに長くなってしまいましたが。

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