2階建て4両! 100系新幹線V編成グランドひかり KATOからNゲージ16両フル編成も

Nゲージ

今回は、新幹線100系の話題です。

100系は1985年から1992年まで1056両が製造され、90年代初頭の新幹線の主役として活躍しました。

その中でも、JR西日本が製造したV編成、通称100N系は、高速化、車内サービス、搭載機器などほかの100系とも違う異色の存在でした。

モデルでは、KATOから『グランドひかり』16両フル編成分が発売されています。



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100系登場前夜 技術停滞の進んだ新幹線

100系新幹線
wikipediaより

1985年(昭和60年)、それまで0系ばかりだった東海道・山陽新幹線に、100系新幹線がデビューしました。よりシャープになったフロントと細目のライト、窓下に追加されたラインは、遠目からでもはっきりと新型車であることを認識することができました。高速鉄道としては世界初の2階建て車両も話題となりました。国鉄改革もいよいよ終わりに近づき、広く国民に「新しい新幹線」をアピールする役目は十二分に果たしていたといえるでしょう。

東海道・山陽新幹線は、1964年(昭和39年)の開業以来0系の増備が続けられてきました。国鉄の労使関係の悪化、財政の悪化という諸問題から新幹線の技術更新は滞り、老朽化した0系は0系での置き換えが続いていました。しかし登場から10年以上が経過し、マイナーチェンジを繰り返したとはいえデザイン、性能、設備は次第に陳腐化が顕著になっていきます。1982年(昭和57年)に東北・上越新幹線が暫定開業、この時投入された200系も、マイナーチェンジや使用線区にあわせた仕様変更が行われたものの外観は0系と大差ありませんでした。

さらに世界に目を向けると、1981年にフランスのTGVが開業し、最高速度260㎞/hでの運転を開始。最高速度で日本の新幹線を上回ったことは世界でも大きく取り上げられ、日本国内にも少なからずショックを与えます。

乗客目線で設計 国鉄改革の象徴100系新幹線

そんな中、国鉄改革の一環もあり新幹線のイメージアップを兼ねて新型車両を投入する機運が高まります。新型車、新技術の導入に当たっては「業務が煩雑になる」「人員削減につながる」と現場の労働組合が拒んできましたが、いよいよ現実味を帯びてきた国鉄分割民営化がそれらの意見を抑え込むことになりました。また、博多開業時に投入された0系が大量に置き換え時期を迎える、1980年代半ばのデビュー目指して設計が進められることになります。

こうして100系は、まず1985年(昭和60年)3月に量産先行車となる第一編成が完成、入念に試運転を行った後、同年10月より『ひかり』1往復での運転を開始しました。現場中心ではなく、乗客目線の設計で国鉄改革の象徴として設計された新型新幹線は、国鉄の思惑通り多くの注目を集めることになりました。

100系の最大の特徴は、高速鉄道としては世界初となる2階建て車両でした。空気抵抗の面から考えれば、編成中で上に突き出る2階建て車両は不利になりますが話題性としては十二分で、見た目にもインパンクととして十分でした。通り抜け客を1階に分離することで静粛性が保たれることから、2階席はグリーン車または食堂車となりました。

登場時の2階建て車両
Wikipediaより

0系では16両全てが電動車でしたが、100系では出力アップのおかげで2階建車2両と両先頭車の4両が付随車となりました。

車内は、0系では不可能だった3人掛け席のリクライニングもできるようになり、シートピッチも0系と比べ拡大され現在の新幹線の標準となりました。貫通扉上の情報表示など、以降の新幹線の基本になった設備も多く採用されました。

競争力アップへ 100系V編成『グランドひかり』

国鉄時代に製造されたのは試作編成を含め7編成で、これらはX編成と呼ばれることになります。主に東京-博多間の長距離『ひかり』に用いられ、2階建て車両のうち、8号車が食堂車(2F)・厨房(1F)、9号車がグリーン車(2F)・グリーン個室(1F)でした。民営化後100系の生産はJR東海へ引き継がれ、1987年~1992年に50編成が製造されました。これらは東海道新幹線での使用が中心となること、定員増加とコスト削減を狙い、8号車をグリーン車(2F)・カフェテリア(1F)に変更し100´系としてG編成と区分されました。

一方、圧倒的なシェアを誇る東海道新幹線に対し、航空機と激しい競争にさらされている山陽新幹線では、新幹線の競争力をよりアップするために100系を基本としながら新たな車両を導入することになりました。これが1989年からJR西日本が製造した100N系で、V編成と区分されました。

外見上の最大の違いは、両先頭車を制御電動車とするかわりに付随車を中間に集めて、編成中4両が2階建てとなったことでした。時刻表などでは『グランドひかり』と記載され、長距離運用を想定し8号車は食堂車となり、7、9、10号車はグリーン車(2F)・普通車(1F)となりました。特に階下の普通車は、2+2列のゆったりとした構造となり、落ち着いた内装とともに好評で、後の『ひかりレールスター』開発の基礎となりました。

100系V編成 制御電動車を採用したため連結器下に通風孔がある
wikipediaより

性能的には、最高速度がX、G編成から10㎞/hアップの230㎞/hとなり、新大阪-博多間の所要時間が2時間49分となりました。将来のさらなるスピードアップに備え、270㎞/hが運転可能なよう車体構造とし、搭載機器も仕様変更が行われ、同じ100系でも異なる点が多いのがV編成の特徴でした。

なお、1990年2月に270㎞/h運転を見据えた高速化試験が行われ、最高速度277㎞/hを達成したものの、騒音基準がクリアできなかったこと、費用対効果の点で見合わないとの結論に達したことから、最高速度の向上は行われませんでした。

最盛期には8往復の『グランドひかり』が運転され、東京-博多間を5時間40分台で結び、豪華で多彩な設備と相まって山陽新幹線の看板列車として活躍しました。しかし1993年改正で山陽新幹線にも『のぞみ』がデビューすると、速達列車の役割は『のぞみ』に譲ることになります。さらに、1997年改正では500系『のぞみ』が運転を開始。速度に劣る100系は、V編成を含め次第に運転本数が削減されていきます。新幹線で最後まで営業していた食堂車も、長距離客の『のぞみ』へのシフトが進んで利用不振となったことから、2000年3月改正で廃止となりました。最後のお別れにと食堂車に行くために乗車する人たちも多く、その様子はニュースなどでも大きく取り上げられました。

V編成の終焉と100系引退

山陽新幹線の看板列車として活躍した100N系『グランドひかり』V編成ですが、最後まで残っていた1往復も2002年5月をもって運用終了となり、この年の11月にさよなら運転を行い引退となりました。

用途を失った100N系は、先頭車両は制御電動車方式を採用していたため、短編成化が容易であったことから重宝され、4両、6両編成のP、K編成として再活躍することになりました(不足する先頭車は、JR東海から購入した100´系の電動車を先頭車化改造)。山陽新幹線で『こだま』として使用された、2013年3月にすべて引退となりました。

現在は、最高速度も300㎞/hに向上し、東京-博多間の所要時間も100系の時代には考えられなかった4時間台となりました。速度の向上は著しいですが、『グランドひかり』にみられたような、速度もさることながら様々な設備をもって新幹線自体の魅力を高めよう、という気概が感じられないのは少し残念です。

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