開業から120周年 列車で食事‥食堂車  富裕層のための設備から必須設備へ、そして衰退

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格別だった食堂車での食事

さいたま市の鉄道博物館で、企画展「走るレストラン ~食堂車の物語~」が開催されています。

1899年(明治32年)に当時の山陽鉄道(現在の山陽本線)で連結されたのが日本での始まりとされ、今年はそれから120周年となることを記念して開かれているそうです。

山陽鉄道(現在の山陽本線)の列車に連結された、食堂付き1等車の例 当時利用できたのは、富裕層に限られた
Wkipediaより

ちなみに、企画展「走るレストラン ~食堂車の物語~」については鉄道博物館のサイトでご確認ください。2020年の1月まで開催されているそうです。

今では『ななつ星』をはじめとするクルーズトレイン、それに『在る列車』や『レストランキハ』など、食堂車と言えば特別な存在になってしまいましたが、1970年代ごろまでは国鉄の中・長距離列車にはなくてはならない存在でした。

私も幼い頃、多分1980年代初頭のことと思いますが、大阪から金沢へ向かう特急『 雷鳥』の食堂車でカレーライスを食べた記憶があります。当時は在来線の特急にも食堂車が残っていました。

また、新幹線の食堂車は幾度か利用したことがあります。0系や100系X編成は90年代で営業終了となりましたが、100系V編成(グランドひかりの)食堂車は2000年まで存在していました。2階席の大きな窓から流れゆく景色を眺めながらの食事は、また格別でした。

食堂車の歴史

食堂車の歴史は、アメリカが始まりと言われています。大陸横断鉄道の建設が進み、人々の乗車時間が長くなるにつれて食事が問題になってきました。本格的に車両に供食設備が取り付けられるのは1870年代ごろからで、豪華なフルコースが食べられることも珍しくなく、アメリカの鉄道黄金時代を演出していました。

日本でも、鉄道の営業キロが伸びるにしたがってやはり食事が問題となり、山陽鉄道では瀬戸内海航路と対抗する意味も込めて食堂車のデビューとなりました。20世紀に入ると、他社や官営鉄道(のちの国鉄、今のJR)の長距離路線でも運行を開始します。

1935年頃の食堂車の様子 世界恐慌の影響を脱し、戦争の影もなく、戦前の最盛期だったこの時代、食堂車を連結した列車は全国に70余りあった 
Wikipediaより

当初の食堂車は、1等車(現在はグランクラスが相当)、2等車(現在のグリーン車)の乗客に限って利用が認められていました。身だしなみや食事マナーも必要とされ、素行の悪い3等車の乗客と乗り合わせて不快な思いをしないように、との配慮だと言われています。富裕層の利用のみを想定したことから、メニューは庶民にはなじみの薄かった洋食のみとされました。当時は、上流階級と一般国民との間には、これほど明確な差があったわけです。

戦前には特急、急行列車だけでなく長距離の普通列車にも連結されていた食堂車ですが、やがて戦争になると次第に連結される列車、規模を縮小、1944年(昭和19年)でいったん休止されます。

戦後は、終戦の1945年(昭和20年)に早くも再開されますが、これは連合国軍専用列車に限っての話で、日本人が利用することはできませんでした。日本人向けの食堂車が復活するのは、1949年(昭和24年)、東京-大阪に特急「へいわ」が運転を開始したときでした。

1950年代半ばごろからは、高度経済成長により人々の移動がより活発となり、国鉄の長距離列車の利用客も増加の一途をたどります。新幹線や高速道路もなく、当時は1日、あるいは1晩かけて列車で移動することも珍しくありませんでしたから、長距離列車に食堂車は必須でした。国鉄は食堂車の直接経営を行わず複数社による委託営業としたため、乗り比べ、味比べをする乗客もあったそうです。厨房・調理も本格的で、積み込んだ材料でいかに乗客に満足してもらうかは、料理長の腕の見せ所でした。

489系の食堂車サシ489 食堂車は窓配置が独特で、編成中でも目立つ存在だった 小窓の部分は厨房となる 
Wikipediaより
キハ181時代の『やくも』に連結された食堂車キシ180 厨房の反対側は通路となり、立って食堂の空きを待つ乗客が外を見やすいようやはり独特の窓配置だった 所要時間のそれほど長くない『やくも』だが、1982年(昭和57年)の伯備線電化で381系に置き換えられるまで食堂車が連結されていた
Wikipediaより

急行列車の場合は、乗車距離も特急列車ほど長くない場合も多く、乗客の入れ替わりも激しいことから、電車化を機に半室ビュッフェなどを連結することもありました。調理スペースの関係からメニューは簡素化されたものが多かったそうですが、電子レンジが設置され供食が容易となりました。変わり種としては、寿司バーや立ち食いソバが提供された列車もありました。

食堂車は衰退へ

しかし1970年代以降、食堂車は次第に縮小されていきます。長距離客の減少、職員数の不足、自由席客の占拠による回転悪化、それらに伴う合理化のためメニューの簡素化のための客離れ、など様々な原因が言われています。こうした中1972年(昭和47年)には北陸トンネル列車火災事故が発生。トンネル内で深夜の食堂車から出火し、死者29名、負傷者600名以上を出す大惨事となりました。当初は出火元として食堂車の石炭コンロが疑われたため(実際は配線の劣化によるショートが原因)、残存していた石炭コンロを使用する全車両が営業運転から離脱し、急行列車から食堂車が大削減されることになりました。

さらに赤字経営となった国鉄の合理化政策のため、残存する食堂車も廃止が進み、JR化後まで残ったのは九州ブルトレと新幹線のみという状況でした。

食事をしに列車に乗るという発想

JR化後、食堂車は新たな方向性を見せます。

『トワイライトエクスプレス』に連結された食堂車「ダイナープレヤデス」 1万円を超えるコース料理が提供されることが話題となった 寝台特急だったが、もともとはサシ481からの改造 
Wikipediaより

在来の食堂車は削減が進む一方、寝台特急『北斗星』や『トワイライトエクスプレス』に見られるように、その列車ならではのサービス一つとして提供されるようになります。残念ながら『北斗星』や『トワイライトエクスプレス』は列車自体が廃止になってしまいましたが、食事をするために列車に乗るという新しい価値観を生み出し、全国各地にこうした列車が走っているのはご存じのとおりです。

いったん衰退した食堂車、列車内での食事が復活するのは大変うれしいことですが、残念なことに「気軽に利用する」という価値観はなくなってしまいました。

鉄道先進国 ヨーロッパでは食堂車は健在 積極的なてこ入れも

鉄道先進国ヨーロッパでは、食堂車の扱いについて国ごとに大きな差があります。

全体的には、鉄道の高速化、経営の合理化などで縮小の傾向にありますが、やはり長距離列車にはなくてはならない存在です。日本のように、儲からないならやめてしまえ、というものではなく、その時代に合わせたてこ入れも積極的に行われています。特にドイツ語圏を中心にその存在は大きく、食堂車での食事を目的に列車に乗る日本人の姿もあるほどです。

ドイツ、イタリアでは、新幹線にも食堂車またはビストロ、バーが連結され、軽食からコース料理を楽しむことができます。特にドイツ新幹線ICEでは、2017年より旧型車の置き換えが始まり、その際に食堂車の去就が注目されましたが、最新型ICE4にも本格的な食堂車が登場しました。スイスでは、原則として国内特急列車でも食堂車またはバーが連結されていますが、バーから食堂車への置き換えが進んでいます。

ぜひ「鉄道ならでは」のサービスを

食事を目的とする観光列車はともかく、世界的に見ても食堂車は決して大きな利益を生む商品でないことは確かなようです。長距離移動が航空機へシフトし、列車の高速化も進む現代にあっては、列車の中で食事をする意義どころかその必要さえ失われました。

ですが、移動しながらテーブルで食事をする、こんなことは鉄道ならではのサービスです。儲からないから合理化だ、と言われしまえばそれまでですが、鉄道に他の交通機関との競争力を持たせるのなら、ぜひこうした「ならでは」のサービスを生かしていただきたいと思います。

今ヨーロッパでは環境問題から、自動車、航空機から鉄道へのシフトを加速させる動きが盛んです。また、車内での食事の機会が増えれば、あらたな供食サービスが増えるかもしれませんね。

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