鉄道の冷房化 その歴史をさぐってみる
2022年は、異常に早い梅雨明けととともに猛暑が襲来しました。熱中症を予防するためにも、適切な冷房の使用が呼び掛けられています。
今や鉄道だけでなく、一般家庭やあらゆる施設、空間まで当たり前のように普及している冷房ですが、これはほんのここ数十年の話。1970年代頃までは、鉄道で冷房がついているといえば新幹線や特急列車、一部の新型車両くらいで、夏でも窓全開で走る姿が一般的でした。1985年(昭和60年)になっても、冷房化率は大都市圏でさえ国鉄で81%、大手私鉄で77%という程度。地方路線や中小私鉄ではまだまだ冷房なしも当然で、トンネルも小さく、排熱問題で冷房化に消極的な営団地下鉄(現在の東京メトロ)に至っては冷房化率0%という状態でした(「冷房化にチョッパ制御… 地下鉄の新機軸満載だった御堂筋線10系が引退」もよろしければご覧ください)。朝ラッシュの混雑も今よりずっと激しく、車内はさながら「蒸し風呂」状態であったことでしょう。
そんな鉄道車両の冷房ですが、いったいいつごろから始まったのでしょうか? 今回はその謎に迫りたいと思います。
冷房の発明も、鉄道の冷房化もアメリカから始まった
冷房装置は19世紀から存在しており、当初は氷で冷やした空気を循環させるといった原始的なものが中心で、現在のように冷媒ガスを用いた電気式のエアーコンディショナーは、20世紀初頭にアメリカで開発されました。鉄道で初めて冷房車が登場したのは1929年、やはりアメリカのボルチモア・アンド・オハイオ鉄道で、走行環境の厳しいアメリカでは、室温だけでなくホコリや煙が車内に入らないことから乗客には好評でした。ちょうど高速道路と自動車が競争力を増していた時代で、当時冷房が搭載可能なのは鉄道だけであり、乗客増へ大きく貢献しました。このためアメリカでは空調付き車両の製造がブームとなり、1940年までに12,000両の冷房車が製造されたといわれています。これに比べ、気候の比較的穏やかなヨーロッパでは、この時代冷房車にはさして興味が示されなかったようです。
日本に冷房装置がもたらされたのは明治の終わり頃(1910年頃)と言われており、大正時代には大きな熱を発する工場などに冷房が設置される例もありました。
1930年代になると、フロンガスを用いた家庭用空調機がアメリカで登場。設置や取り扱いが簡単になったことから、日本でも大きなビルや百貨店に導入されるようになり、一般人にも冷房に接する機会が生まれました。
日本国内初の冷房車は、1936年(昭和11年)の南海電鉄2001型
日本国内の鉄道で始めて冷房車が登場したのも、まさにこの頃でした。1936年(昭和11年)、大阪と和歌山を結ぶ南海電鉄で、1929年(昭和4年)より製造されていた2001形のうち、1936年製の制御車クハ2802に試験的に冷房装置を搭載。屋根上に室外機を搭載して冷媒ガスを用いて冷風を取り出すという現在と同じ構造で、これが日本国内で初めての冷房車となりました。
ユニットを組む電動車モハ2002には電源装置が設けられたため、スペースの都合上冷房装置が搭載できず、また消費電力も相当量であったそうですが、翌年にはなんと6両の冷房車が登場し8両体制に。冷房装置にも改良がくわえられ、出力が上がったため蛇腹ホースをつなぐことで電動車側にも冷風を送り込める構造となりました。
南海電鉄は、並走する阪和鉄道(現在のJR阪和線)との競争が激しく、サービスアップには特に熱心で、大正時代には特別車両に限ったとはいえ当時珍しかった扇風機を設置したり、日本で放送が始まったばかりのラジオを受信できる車両を製造した(実際には不調であり、すぐに取り外されたようです)こともありました。
冷房付車両はやはり乗客からは大好評だったようで、中には冷房車の到着を待つ人も見られたということです。また、南海電鉄の記録には「旅客が冷房車に集中しかえって暑くなった」などという、冷房が珍しかった時代ならではのエピソードも残されています。
ちなみにこの冷房装置を製造したのは大阪金属工業という会社で、現在もよく知られる会社として存在しています。聞いたことがない会社だな、という方も、略称で現在の社名であるダイキン工業といえばほとんどの人が知っているのではないでしょうか。
省鉄(のちの国鉄)にも冷房車が登場
同じころ、省鉄(鉄道省の運営する鉄道のことで、後の国鉄)にも冷房車が登場しました。南海電鉄と同じ1936年に竣工したオハ35系客車の食堂車マシ37850(のちにマシ38形)に、試験的に冷房装置が搭載され、当時の日本の看板列車であった特急『燕』で使用されました。こちらは動力を持たない客車だったため、車軸に取り付けたベルトを回して発電し、コンプレッサーを作動させる仕組みです。運転開始は南海が6月、省鉄が8月と、わずかの差で南海に軍配が上がりました。
1938年(昭和13年)までに6両が製造され、断熱のため二重窓が採用されるなど冷房車ならではの設計でした。当初は比較のため2通りの異なるメーカーの冷房を搭載、1939年(昭和14年)までに全車両とも川崎造船所製の装置に統一されました。
これらの車両は1937年(昭和12年)より本格的な運用が始まりましたが、蓄電池などはなく車輪の回転で発電した電力をそのまま用いるため、停車時は冷房が作動せず、逆に高速走行中には冷房が効きすぎて寒くなるなどの欠点が存在したようです。
戦争の影響 「贅沢」として冷房車は休止
戦前から冷房車があったことは驚きですが、昭和初期は意外にも人々の生活レベルは高く、食文化や行動様式など、この時代を基礎としている現代の生活も数多く存在しています。しかし、折り悪く日中戦争の影響が強くなり、冷房車は姿を消すことになります。
南海電鉄が本格的に冷房車の運行を開始した1937年には、7月に日中戦争が勃発。電力消費の多い冷房車は「贅沢」と非難されるようになりました。このため、翌1938年は冷房の稼働を停止、重量のある冷房装置は撤去されました。このため、実質的な南海の冷房車サービスは1937年夏の1シーズンのみという結果になりました。
省鉄に採用された冷房車は、国を代表する列車に使用されていることもありしばらくはそのまま運用されていましたが、戦争の激化により1943年(昭和18年)3月で特急『燕』が運転を休止したことから使用中止となりました。将来の使用に備えて車両を疎開させたものの、1両が戦災により廃車となっています。
「日本初」の冷房車は、遡ること2年の中国大陸で実現した
さて、南海2001形を「日本国内」初の冷房車と紹介しましたが、実は「日本初」の冷房車は日本国内ではなく、中国大陸で実現していました。
それは、当時実質的に日本の支配下にあった満州国の大連―新京を走った、満州鉄道の「あじあ号」でした。
東京とヨーロッパの国際列車の一端を担う「あじあ号」は、日本の威信をかけて最高級のサービスが提供され、1934年(昭和9年)に営業を開始。最高速度は130㎞/hで、開業当初は大連―新京701㎞を7時間30分、評定速度82.5㎞/hで結んでいました。
車両は専用車両が用いられ、全編成が滑らかな流線形に覆われた優美な形で、車体長24.5mの大型客車ながら軽合金で軽量化が図られ、展望車や個室、食堂車も連結した豪華な編成でした。
さらに特徴的だったのは、郵便・荷物車を除く全車両が空調を完備していたことでした。編成単位で冷房化を行おうという試みは世界でも初めてで、客用窓は基本的に使用しない発想は、後の151系『こだま』や新幹線にもつながるものでした。
ただし「あじあ号」の冷房は機関車で発生した圧力蒸気を使用して冷媒を気化させる方式を採用、これはアメリカ製をコピーしたもので、特に最初の1年は故障が絶えず、その使用や調整にも手間がかかったようです。冷房に限らず「あじあ号」はこれだけの設備を持ちながら準備期間が1年ほどしかなく、初期故障には随分と悩まされたそうですが、これも後の東海道新幹線0系と重なる部分が感じられます。
当時としては破格の設備を持った『あじあ号』でしたが、こちらも戦争の激化により1943年2月に運転を休止。その後日本の敗戦により旧ソ連や中国に接収され、客車は中国―モンゴルを結ぶ列車に使用されていた模様です。なお、機関車の一部が中国に保存されている他、荒廃した状態であるものの客車数両も現存している模様です。
戦後の冷房車は? 通勤電車には1970年代ごろから普及
それでは、最後に戦後の冷房車の普及状況を見てみましょう。
戦後の冷房車は、日本の敗戦となった1945年(昭和20年)から始まりました。
とは言っても、日本国民の利用できるものではありませんでした。鉄道省では、戦後の再利用に備えて優秀な車両を地方に疎開させており、比較的被害が少なかったため、こうした車両は戦後アメリカ軍に接収、冷房化されることとなりました。
資材や優秀な技術者が払底する中で、複雑な冷房装置を搭載、使用するのは大変な苦心があったそうですが、アメリカ軍からの要請は最優先であり、食堂車や一等、二等寝台車を中心に十数両に改造が施されました。
日本国民向けとして戦後初めて冷房を搭載したのは、1950年(昭和25年)に東京―大阪で運行を開始した特急『はと』で、アメリカ軍から返還された冷房付きの一等展望車スイテ49-2を整備、連結しました。ただし、この時点でも車軸で発電する方式は変わらず、本格的な電気式による冷房が客車に搭載されるのは、20系の登場を待つ必要がありました。
1957年(昭和32年)、近鉄で大阪―名古屋の特急に使用されていた大阪線2250系と名古屋線6421系(当時は大阪線と名古屋線では線路幅が違った)に、冷房装置が搭載されました。電動車と付随車を1ユニットとし、付随車に搭載した冷房装置で2両に送風する仕組みで、これにより日本国内の列車として初めて編成全体が冷房車となりました。この成功を受け、翌年に登場した151系電車や20系客車は、空調の使用を前提とした固定窓、固定編成となり、これ以降日本国内でも冷房車が普及していくこととなります。
特別料金の不要な列車として初めて冷房を搭載したのは、1959年(昭和34年)の名鉄5500系です。国鉄に登場した80系による快速列車や、当時増加し始めていた自動車への対抗として製造されました。同年中には特急列車の100%冷房化を達成、1961年(昭和36年)の7000系パノラマカー投入へとつながりました。
1960年代には「新・三種の神器」の一つとして人々の憧れだった家庭用エアコンですが、1970年(昭和45年)に5%程度だった普及率は1973年(昭和48年)には10%を突破、10年後の1980年(昭和55年)になるころには40%と急速に伸び、国鉄や大手私鉄でも通勤列車への冷房車の投入が本格化します。
大手私鉄では阪神電鉄が1984年(昭和59年)に始めて冷房化率100%を達成。大手私鉄ではおおむね1980年代後半には冷房化率100%となりましたが、冒頭で述べたように東京・大阪での地下鉄冷房化は遅くなり、大阪市営地下鉄(現在の大阪メトロ)が冷房化率100%となったのは平成になった1995年、営団地下鉄(現在の東京メトロ)は1996年、そして最後まで非冷房車が残った三田線で6000形が引退し、都営地下鉄が冷房化率100%となったのは20世紀も終わりに近い1999年のことでした。