猛火に包まれる大阪 その時、地下鉄は動いた
1945年(昭和20年)の3月13日深夜から14日未明にかけて、大阪ミナミの繁華街である心斎橋、難波一帯はアメリカ軍の激しい空襲を受けました。200機を超す大編隊の爆撃で辺りは一面の猛火に包まれ、人々は逃げることさえできず炎と煙に追い詰められていました。その時、本来は閉まっているはずの地下鉄の駅が開けられ、大勢の人が地下へと逃げ込みました。すると、そこへ電車がやって来て、被害を受けていなかった梅田方面へ多くの人々が避難しました。
これは、被災者の証言をもとに再現された言い伝えです。戦時下の鉄道は軍隊に準ずるものとされ、終戦時に多くの記録が破棄されました。大阪市でも例外ではなく、この話題は長い間語られることもありませんでした。空襲の日、電車は走ったのか。今なお詳細は分かっていません。
空襲時、日本では地下鉄への非難は禁止されていた
第二次世界大戦当時、空襲下の地下鉄として記録が残るのは、ロンドン地下鉄です。ドイツ軍の空襲を避けるため、多くのロンドン市民が地下鉄へ避難しました。地下鉄駅は避難した市民の生活の場所となり、商店や病院までが作られました。やがてイギリス空軍はドイツ空軍に勝利し、ロンドン市民は地下鉄生活から解放されることになります。
この頃日本の本格的な地下鉄は、東京と大阪の2都市に1路線ずつ存在しました。現在の銀座線と御堂筋線です。アメリカとの開戦前から、戦時下における地下鉄の扱いは、度々軍部や政府の間でも話し合いが持たれました。その結果、防空法と言う法律のもと、空襲下では市民の地下鉄への避難は一時的には行っても良いものの、避難施設としは使用しないことになりました。地下には水道管やガス管があり、これらが被害を受けると地下はかえって危ない、と言うのが建前で、多くの市民を納得させました。しかし事実は、空襲下でも影響なく移動できる地下鉄を軍事目的に使うため市民の利用を認めず、さらに市民を防火要員として利用したかった、というのが本音のようです。
大阪空襲直前の1945年(昭和20年)3月10日未明、東京が空襲を受け10万人以上の死者、行方不明者を出しました。いわゆる東京大空襲です。これだけの被害と犠牲者をだしながら、軍規に基づき地下鉄は閉鎖されたままで、市民を入れることは決してありませんでした。大阪でも当然状況は同じと考えられ、地下鉄に避難するなどということは専門家の間でも考えられたこともなく、長い間調査が行われることはありませんでした。
一つの投書から始まった 地下鉄避難の調査
しかし、この冒頭の体験をつづった1人の投書が新聞に掲載されると、複数の体験者から同じような声が上がりました。これらの声を受け、大阪市交通局(当時)の労働組合が調査を行いましたが、大阪市交通局は終戦時に戦時中の運行記録を破棄していたため、詳細はわかりませんでした。そこで毎日新聞の協力を得て徹底的に調査が行われることになり、その結果以下のような証言を得ることが出来ました。
- 解放されていた駅は、心斎橋、本町、大国町など
- 地上の惨状と比べ、地下には煌々とシャンデリアの灯りが輝いていた
- 少なくとも数百人以上の人々がいた
- やがて電車が到着し、被害のない梅田方面へ電車に乗って避難した
- 電車に乗った時間は、午前3~4時頃と証言するグループと、午前5時頃であったと証言するグループがある
- 天王寺方面へも電車が動いたという証言があるが、詳細は不明
特に4つ目の点に関しては、梅田に着いた時にまだ暗かったという人と、既に夜が空けていたという人がいることから、複数の電車が走ったことが推測されます。
また、正確な人数は分かりませんが、少なくとも百人単位の人々が電車に乗って避難したことが伺えます。
しかし、これだけの避難者を輸送しながら、駅を解放した人、電車の運行を命じた人、電車を動かした人など、相当数はいるはずの運行した側の証言は全く得られませんでした。ただ、数少ない記録の中から、本来は終電後送電を停止するところ、この日に限っては送電したままになっており、電車を動かすことが可能であったことが分かりました。
運行の公式な記録はついに見つからなかった
結局、避難者の証言以外に新たな手がかりは見つからず、具体的な運行の記録や全容は不明なままとなりました。調査では、午前3時のグループが乗車したのは、前夜の空襲警報で運転を打ち切った電車を所定の位置に回送する列車、午前5時のグループが乗車したのは、職員を各駅に送るいわゆるお送り列車(現在も存在します)で、それに現場の判断で避難者を乗せたのではないか、軍規違反で処罰されることを恐れて関係者が口にすることがないまま、いつしか忘れ去られていたのではないか、と推測するに留まりました。
いずれにしても、この空襲では4000人を超える命が奪われました。しかし、その極限状態の中、規律にとらわれない一部の関係者の機転で、多くの人が救われたことは確かなようです。