『やまぐち号』をディーゼル機関車牽引で運転 最後の晴れ舞台となるか DD51を解説

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『やまぐち号』2021年度前半はディーゼル機関車牽引で運転

JR西日本は、山口線で運行している『 やまぐち号』について、2021年3月~9月はディーゼル機関車牽引による『 DLやまぐち号』として運転することを発表しました。

通常『 SLやまぐち号』として先頭に立つC57 1号機は、2020年10月10日の運行の際、復路の津和野を発車した時点で異常を認めたため運行を中止、救援のDD51に引かれて小郡へ戻りました。さらに10月20日には所属区である梅小路運転区へ回送され、点検と修理が行われていました。なお、その後の『 やまぐち号』のうち、直後の10月11、17、18日についてはDD51が担当、それ以降は梅小路から急遽回送されてきたD51 200が充当されています。

なお、故障当日の様子は動画サイトにもアップロードされています。走行中に異音が発生している様子や、救援機がやってくる場面などを見ることができます。

SLやまぐち号 異音トラブルで立往生 前進不能に至るまでの車窓動画(前編)
窓を開けて車窓風景が撮影されています 津和野を発車した後もスピードが上がらず、1:50あたりから異音がはっきりと聞こえ立往生に至ります
【C571故障】SLやまぐち号 立ち往生からの救援~帰還まで 2020.10.10
こちらは外からの撮影です 山中に立ち往生してしまったため、道路のある踏切まで下り坂を後退して乗客を避難させています その後救援機DD51が到着、小郡駅へと回送されています

調査の結果、ピストン内部の部品が損傷して蒸気圧を保てなくなり、動力が低下したためと分かりました。部品の交換は可能と見られていますが、未知の損傷箇所があるかもしれず、修理には2021年9月ごろまでかかる見込みということです。また、今シーズン急遽代役を務めたD51 200も、来年は検査のため『やまぐち号』の担当はできないこととなりました。

このためJR西日本では、2021年3月~9月の『やまぐち号』の運転について、牽引機をディーゼル機関車に変更し、『DLやまぐち号』として運転することを発表しました。同時に運転日については、例年の毎週末を中心とした運転から連休や長期休暇など多客時のみの運転とし、運転日数は延べ35日で、6月は運休となります。10月以降の運転は未定となっています。

山口線 観光列車 DL「やまぐち」号 の運転計画について

JR西日本 ニュースリリースより

牽引機は? 形式の発表はなし DD51が登板するのか?

これまでも『SLやまぐち号』で運転されていた蒸気機関車に不具合が生じた場合、ピンチヒッターとしてディーゼル機関車牽引で運行されることはたびたびありました。また、蒸気機関車の補助として連結されることもあり、いずれも場合もDD51が登板することがほとんど(近年は下関総合車両所の1043号機がほぼ専属的)でした。

使用される機関車については、イメージ写真としてDD51牽引の過去の『 DLやまぐち号』が掲載されていますが、ディーゼル機関車と発表されているだけで、形式についての言及はありません。発表の中で「1960年代から蒸気機関車の代替車両として、国鉄では約1,400両が製造されました。客車や貨車の牽引を目的に、最盛期は全国各地で活躍しましたが、徐々にその数を減らし、JR西日本の保有数も今では26両となっています。」との記載があり、これはDD51に限らず全てのディーゼル機関車を含めた記述と思われます(DD51の8両、DE10の18両を指しているものと思われますが、実際には除雪用のDE16があと4両存在しています)。しかし、配置や出力の関係からDD51である可能性がもっとも高いでしょう。

1966年(昭和41年)より製造が始まったDE10 蒸気機関車が使用されていた線路規格の低いローカル線や構内入換用の汎用機関車として製造され、長きにわたってその用途についている 入換運転に都合がいいよう、運転台は横を向いているのが特徴で、前後が変わっても機関士は動かなくてもよい 700両以上が製造され、2020年現在も100両以上が残っている
撮影:鉄道模型モール制作室

全国で無煙化が進められた「動力近代化計画」

1960年代は、大都市圏とわずかに電化されていた幹線の一部を除くと大半の路線が非電化路線でした。例えば、1958年(昭和33年)には、国鉄の電化区間は路線長20,000㎞に対して2,200㎞余りにすぎす、非電化区間に限ってもディーゼル機関車・ディーゼルカーが合わせて約1,600両に対して蒸気機関車は4,500両余りと蒸気機関車が主役の座を占めていました。

しかし、蒸気機関はディーゼルや電気と比べエネルギー効率に劣り、格段の燃料を消費するほか、給炭、給水、転車台など大掛かりな設備や、メンテナンスにも人手が多くかかるなどあらゆる面で非効率さは否めませんでした。

そこで国鉄では、蒸気機関車を廃止し、旅客列車に関しては原則電車化、ディーゼル化することを目指した動力近代化計画を1960年(昭和35年)よりスタートさせました。ただし、当時存在した荷物、新聞輸送を行う関係で客車列車も当分は存在させる必要があることから、蒸気機関車に代わるディーゼル機関車が開発されることになります。

安定した性能をも持つディーゼル機関車としては、1957年(昭和32年)からDF50が製造されていました。箱形のボディに電気機関車にも似た両運転台を持ち、本線から亜幹線、ローカル線を問わず客貨両用に用いられ、国鉄として初めて本格的に量産されたディーゼル機関車となりました。しかし、根本的に出力が低く、国鉄では引き続き本線級の大出力ディーゼル機関車を開発することとなり、こうして登場したのがDD51でした。

初の量産型ディーゼル機関車となったDF50 北海道を除く日本全国で使用され、特急列車の先頭に立つこともあった しかし出力不足で、完全に蒸気機関車を置き換えることはできず、その任は後継機にゆだねられることとなった
Wikipediaより

本線級ディーゼル機関車として計画されたDD51

DD51は、1962年(昭和37年)から製造したディーゼル機関車で、1978年(昭和53年)までの間に649両が製造されました。

DD51の最大の特徴は、2基のエンジンを前後に分けて搭載し、中央に運転室を設けた凸型となったことで、大型機関車としては世界的にも珍しい外観となりました。性能的には、速度ではC61を、牽引力ではD51を上回るものとされ、3組ある台車のうち中央の台車は付随台車とし、量産型ではこのバネを調整することにより軸重を変えることができ、牽引力が必要とされる幹線と、軸重制限のある亜幹線との両方でより適切な運用が可能となりました。また、先のDF50が主要部品のほとんどを海外製に頼っていたのに対し、DD51は国産メーカーの部品で構成されていたのも特徴です。

「津山まなびの鉄道館」に保存されるDD51 1962年(昭和37年)の登場以来、四国を除く日本全国に投入された 非電化区間なら必ず見かけることができたので、キハ58などと並んで「どこにでもいる車両」の代名詞だった
撮影:鉄道模型モール制作室

まず1962年(昭和37年)、先行試作車として、DD51に限らず今後のディーゼル機関車のプロトタイプとして1号機が登場、各種試運転が実施されます。この際、D51と同等以上の性能があるかどうかを試すため、奥羽本線で1000tの貨物列車を牽引し、10‰の勾配上で始動する勾配実験が行われましたが、エンジンの回転を車輪に伝える液体変速機の不調で失敗に終わりました。このため、2号機以降はエンジンや変速機の改良を行い、あわせて19両もの先行車が投入されて入念なテストが行われ、概ね良好な成績を収めたことから、1964年(昭和39年)から本格的な量産が開始されました。

1966年(昭和41年)製造からのグループは、重連総括制御が搭載されて500番台となり、民営化後まで存在するのはこの中でも593号機以降の「全重連形」と呼ばれるタイプで、これらは799号機まで製造された後、さらに貨物型800番台、試作番台である900を飛ばし、1001へと飛び番となっています。

安定した性能で全国へ投入されたDD51 後継機にも恵まれず

DD51は、四国を除く日本全国に投入され、幹線・亜幹線の区別なく優等列車から普通列車、貨物列車に至るまで幅広く使用されました。DD51の量産に合わせて蒸気機関車が姿を消していったことから、当時のSLファンからは目の敵にされた存在でした。その蒸気機関車は、1975年(昭和50年)の室蘭本線をもって営業を終了、動力近代化計画はのうち、非電化区間のディーゼル化を達成しました。

寝台特急『出雲』を牽引するDD51 全国で見られたDD51の中でも、長きにわたって花形運用だった 山陰本線では比較的最近まで12系や50系を使用した列車も残っており、これらの先頭に立つのもDD51だった
Wikipediaより

DD51は初期にはトラブルもあったものの、その後は安定した性能を発揮したことから、国鉄の標準機としての地位を確立、長きにわたって製造されることになりました。

1966年(昭和41年)、さらに非電化区間の速度向上を図るため、西ドイツ(当時)の技術提供を受け、大出力エンジンを搭載したDD54が登場し、主に山陰本線で蒸気機関車の置き換えとして使用されました。しかし、西ドイツメーカーとの連携不足などからトラブルが頻発、蒸気機関車に救援されることもしばしばという本末転倒な結果となりました。早期に廃車対象となり、実働は最長で10年、最短では4年に過ぎず、結局はDD51に置き換えられることとなりました。また、DD51をベースにした大出力のDE50も製造されていますが、こちらは試作機のみの製造となりました。

独特のスタイルが特徴のDD54 当時の西ドイツのメーカーとライセンス契約を結んで製造された エンジンは西ドイツ製で、その他の足回りは技術提供を受け日本で製造されたが、相性が悪く故障が頻発した 技術供与も中途半端で修理や整備にも支障をきたし、平均7年という短命に終わり国会でも無駄遣いと指摘される始末だった 
Wikipediaより

国鉄末期以降 貨物列車と客車列車の減少で多数が余剰廃車

こうして国鉄標準機として使用されてきたDD51ですが、国鉄末期になると客車旅客列車、貨物列車の減少、電化の進展などにより大量に余剰車が発生することとなりました。1980年代に入ると、先行車から廃車が始まり、1987年(昭和62年)の分割民営化までに6割程度が廃車となり、259両がJRへ引き継がれました。

このうちJR西日本が引き継いだのは63両で、貨物を除く旅客会社としては最大でした。花形運用としては、寝台特急『出雲』の先頭に立っていたのを始め、山陰本線や播但線、芸備線などでは客車普通列車も多数あり、非電化区間では日常的に運用が見られました。

しかし、電化の進展とディーゼルカーの投入により、客車普通列車は1990年代までに全廃、最後まで残った定期仕業の『出雲』も、1998年にまず1往復が285系化、残った1往復も2006年に廃止となりました。

定期運用を失ったDD51は、もっぱら臨時列車や工事列車などに使用されていますが、JR旅客会社では後継機がほとんど製造されていないせいもあり、山陰本線でお召列車が運転される際はDD51が先頭に立つほか、2015~2016年に運行された『特別な「トワイライトエクスプレス」』が運転された際も山陰本線区間で運行されるなど、依然として少数ながら活躍が続いています。

『特別な「トワイライトエクスプレス」』牽引につくDD51 旅客用としては一部を除いて後継機もなく、非電化区間の牽引には引き続きDD51が使用される例が多い 

しかし2020年末現在、JR西日本に在籍するDD51は8両まで減少、その他でもJR東日本に2両、JR貨物に6両が配置されるのみとなっています。特にJR貨物は2021年改正で定期運用をDF200に譲り、検査切れの車両から順次廃車とすることが発表されており、かつては日本全国で見られたDD51もいよいよ終焉の時が近づいているようです。客車列車もめっきりと少なくなった今、『DLやまぐち号』が最後の晴れ舞台となる可能性も高そうです。

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