長年放置の国鉄交流電区間に投入された少数車両 417・713・419・715・413・717系

車両のはなし
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放置されてきた国鉄 交流電化の地方都市輸送

1980年代に入るまで、国鉄の地方都市の輸送形態は今とは比べ物にならないほど貧弱なものでした。本数もずっと少なく、東海道本線名古屋口でさえ、1984年改正までは快速と普通が毎時1本という有様でした。車両面でも、首都圏や地方幹線で置き換えられた経年車を使用する例がほとんどで、第一線を退いた急行車両や、機関車牽引の旧型客車が使用されている例も少なくありませんでした。

直流電化区間においては、標準型となる113系、115系が大量に増備されていたせいもあり、80系など旧性能電車を使用する例は少なくなりつつありました。しかし、交流電化を採用した都市圏では、もともと交流区間用の一般型はほとんど製造されなかったため、旧型客車が日常的に使用されるなど、輸送改善は長い間放置状態にありました。

1985年3月、仙台駅で発車を待つED78+42系客車 地方都市では、1980年代になっても冷房なし、扉は手動といった時代遅れのサービスが当たり前のように提供されていた 
Wikipediaより

このころの国鉄は、現場の労働者と経営の関係が極度に悪化し、国鉄が何か施策を行うにも万事労働組合の了承を取り付ける必要がありました。しかし、経営の合理化や人員削減、業務の増加といった労働者に影響を与える施策はことごとく労働組合に受け入れられず、ストまがいの行為で国鉄やその利用者に多大な影響を及ぼすことが繰り返されていました。果てはダイヤ改正の延期や、新型車両の拒否など、利用客無視も甚だしい行為がまかり通り、国鉄とその労働者は、利用者からも世間からも完全に見放された状態にありました。

利用客の増加で旧型車両では限界となる

1974年(昭和49年)のスト権スト以降、労働組合の勢力は下火となり、ようやく国鉄にも乗客サービスの見直しをはかる動きが出てきます。ただ、この頃にはすでに国鉄の財政は火の車となり、支出は極度に抑制されることになります。1980年代の国鉄の地方輸送改善は、そんな状況で始めなければなりませんでした。

1970年代以降、地方都市でも道路の整備が進みます。マイカーの所有率が高まり、路線バスも車両、路線の充実が図られるようになり、旧態依然の国鉄とのサービス格差は開く一方でした。その反面、都市圏の拡大、通勤輸送の増大などで国鉄の近郊利用もそれなりに増加、デッキ付きで扉数も少ないこれらの旧型車両では朝のラッシュを中心に遅延が目立つようになりました。

本来の急行運用につく457系 国鉄末期には増収目的で急行列車の特急への格上げが行われ、さらに不振列車の整理も毎年行われたため、急行用車両は余剰となりそのままでローカル輸送に転じる例が相次いだ 冷房付き、自動扉はサービスアップにつながったが、デッキ付き2扉、ボックスシートはラッシュなどには不向きだった 加えてもともと大編成を組むことが前提のため、短編成化にも限界があり、依然として長編成による小本数のダイヤが続いた
Wikipediaより

これらの状況を受け、国鉄では久しく放置状態にあった交流電化区間の近郊輸送改善に本腰を入れることになりました。

少数投入に終わった新製車 417系・713系

1987年、仙台駅に停車する417系 JRマークがないため、国鉄末期と思われる この当時はまだ冷房は搭載していない 車体は同時期に製造されたキハ47に近い 膨大な赤字を抱える国鉄には地方向けの新型車両を量産する余力がなく、15両の製造に終わった
Wikipediaより

交流電化を採用した地方都市圏のうち、国鉄が最初に車両面での輸送改善に乗り出したのは、仙台でした。当時の仙台圏では、近郊輸送のほとんどは旧式化した急行用電車化、旧型客車が使われており、いずれも大編成による小本数で運転されていて需要にマッチしたものではなく、通勤時間帯を中心に混雑が問題となっていました。当時交流区間でも使用できる汎用車両であった415系は、ローカル向けの低床ホームには対応していないことや、耐寒設備や山岳設備もなく、仙台圏での使用には不向きでした。

そこで、仙台圏での需要に合わせた車両として製造されたのが417系でした。当時の国鉄は汎用型にこだわったため、交流電化で使用される想定の車両に対しても、交直両用の装備が取り付けられました。

417系は、車体は115系をベースに、当時量産されていたキハ47と似た片側2か所の両開き扉とし、中距離輸送と通勤輸送を両立する設計とされました。塗装は赤13号(ローズピンク)に前面にクリーム4号の警戒色という、交直両用の近郊電車の標準色で登場しました。従来の国鉄では地方都市であっても大編成で運行されることが前提でしたが、417系では仙台圏の需要に合わせて3両編成とされました。

車内は座席付近がロングシート、その他がボックスシートで、キハ47と同様の車内構成となり、シートピッチは急行電車並みに拡大されました。また417系では、側面の自動行先表示器の設置、特急型と同じ台車の採用など多くの点で近郊電車の刷新が図られているのが特徴です。一方で、仙台の気候条件と、国鉄の財政状況から冷房の設置は準備工事にとどまり、実際に冷房化されたのはJR化後の1988年(昭和63年)でした。

1983年(昭和58年)には、長崎本線の客車列車置き換え用として、713系が登場します。車体は417系に準じながら、713系は九州内のみでの使用を想定し交流専用となりました。こちらも短編成での運用を想定して2両編成となり、さらに九州内の気候を反映し新製時から冷房を搭載しました。

こうしてようやく交流電化の地方路線にも新型車両が投入されましたが、国鉄の財政は非常に厳しく、サービスアップのための車両の新製さえままならない状況となっていました。このため、417系は3連×5本の15両、713系に至っては試作900番台のみの2連×4本の8両の製造で終了しました。

417系は、JR化後も一貫して仙台地区に配置され、交直両用でありながら交流50hz区間のみで使用され続け、後に切り替えスイッチが固定されていました。E721系の増備により2007年に全車が運用を離脱、1編成が阿武隈急行へ売却され、2018年まで活躍しました。

宮崎地区へ転出した713系 シートを485系の廃車発生品に交換するなど、グレードアップが図られている 900番台を名乗っていたが、後に0番台へ変更され、現在も宮崎地区で運用中
Wikipediaより

419系・715系「食パン電車」 583系改造の異色の存在

583系を改造した419系 改造費削減のため、極力種車の構造が活かされたため、独特の外観となった 左は先頭車クハネ581からの改造で、先頭形状は583系時代とほぼ同じ 右は中間車からの改造で、583系の車体断面をそのまま利用した その形状から「食パン電車」の愛称が生まれた
Wikipediaより

運用効率も悪く、接客設備も古くなった旧型客車列車は全国に多数存在し、早急な置き換えが必要でしたが、膨大な赤字を抱える国鉄では車両の更新が滞り、一向に改善が進まない状況がさらに利用者からの不満を募らせ、非効率さが経営状況を悪化させる悪循環に陥っていました。

そこで、夜行列車の削減と昼行列車としては設備の陳腐化で余剰となっていた583系を近郊輸送用として改造し、製造されたのが北陸本線向けの交直両用419系と、東北・九州向けの交流専用715系でした。

419系と715系は、両形式ともとりあえず急場しのぎであったこと、583系の車齢も20年近くになっていて、昼夜を問わない酷使で車両の傷みがひどいことなどから、数年程度だけ使用されることを考慮し、近郊輸送として最低限必要な改造にとどめられた結果、原形の583系の姿をよく留める特徴あるスタイルとなりました。

九州地区の715系 何となく不格好で、間に合わせ改造の感は否めない 583系時代と比べ、419系・715系は足回りを近郊仕様に改めてある
Wikipediaより

クハネ581から改造された先頭車は、ほぼ原形通りの特急型の先頭部となりました。ただし、短編成化のため不足する先頭車両はサハネ581やモハネ583から改造され、新たに運転台が取り付けられました。こちらも583系の車体断面をそのまま利用したため、そのスタイルから「食パン電車」と呼ばれるようになりました。

各車両とも1か所であった乗降扉は、近郊輸送を考慮し1か所ずつ増設されました。この際引戸にするには改造が煩雑となるため、種車と同じ2枚折戸とし、幅も700㎜と近郊型としては狭いものとなりました。

419系の車内 583系の高い屋根もそのまま利用されているため、車内は写真以上に広く感じた記憶がある ボックスシートは種車のものが使用され、その頭上には中段・上段寝台が格納されている 無理に改造した様子が伝わり、やっつけ感の強い車両だった
Wikipediaより

車内は扉付近をロングシート、中央部は種車の下段寝台を固定してボックスシートとし、ボックスシート部分は寝台の上段・中段は格納したまま残されていました。この他、2か所あった洗面台やトイレのうち1か所を閉鎖したり撤去したりして扉スペースなどをねん出しています。すべて固定式であった側窓も、換気のため一部が開閉式に変更されました。

419系は3連×15本の45両、715系は九州向け0番台が4連×12本の48両、東北向け1000番台が4連×15本の60両が製造され、1984年(昭和59年)改正でまず長崎地区で715系0番台が運用を開始、翌1985年(昭和60年)改正では419系と715系1000番台も運用を始め、長崎、北陸本線、仙台地区の電車化と増発に貢献しました。

当初の予想に反し、JR化後もしばらく使用されることとなり、各社で延命工事も施されました。しかし、狭い2扉ではJR化後増加した乗客に対応することは難しく、ワンマン運用にも不向きで、次第に運用数を減らしていくことになります。1998年には715系が新型車両の増備で九州、仙台地区から撤退しました。

413系は適当な後継車もなく2000年代に入っても活躍し、交直両用であることを活かして七尾線や湖西線での運用も見られました。その後521系の増備により2005年から廃車が発生、2011年をもって全車運用を離脱しました。

余剰急行車両を活用した 413系・717系

交直両用を活かして北陸本線で活躍した413系 サービスアップが叫ばれるものの、財政が火の車の国鉄としては、増発と経費削減を同時に達成しなければならず、改造車が精いっぱいだったのだろう 
Wikipediaより

地方都市における短編成化、増発を同時に行った「電車ダイヤ」の導入は、いずれの都市においても好評を持って迎えられ、利用客の増加と国鉄のイメージアップに大いに貢献しました。最初に導入されたのは1982年(昭和57年)の広島圏で、日中を中心に利用客は大幅に増加、以降改正のたびに導入する都市圏は増えていきました。

1986年(昭和61年)11月には、国鉄最後となるダイヤ改正が行われることとなり、翌年4月に行われる民営化に向けての最後の仕上げが進められました。

この改正の最大のポイントは、全国で2000本以上に及ぶ普通列車が増発されたことでした。そして、ほとんどの都市圏で短編成化による増発と、パターンダイヤが採用されました。

一方で、積もり積もった国鉄の借金は分割民営化の時点で37兆円に上ると推定され、依然として財政問題は解決せず苦しい経営が続き、ふんだんに新型車両を投入することは不可能でした。

そこで、当時特急への格上げと列車系統の整理、さらに老朽化で第一線を退いて大量に余剰になっていた急行用電車を活用し、これを近郊化改造することで必要な車両を賄うこととなりました。

種車となったのは、交直両用の457系グループ(交流周波数やブレーキ、モーター出力の違いにより、451・453・455・471・473・475系に分類され、後に457系に一本化された)で、北陸本線向けの交直両用413系、東北向け717系0番台・100番台、九州向けの200番台・900番台が製造されました。

車体は近郊輸送としてふさわしいよう新製され、417系・713系に準じた1300㎜の両開き扉を2か所設置、低い汽車ホームに合わせてステップも設置されました。その一方、経費削減のため部品の流用も極力行われており、窓や洗面所などに急行型電車の面影を見ることができました。

北陸本線向けとして、3連×11本用の31両(2両は455系のまま使用)、東北向けとして3連×10本の30両、九州向けとして2連×8本の16両が製造され、一部は民営化後の落成となりました。また、1995年竣工である最終増備車の900番台は扉配置が異なり、種車の片開き扉2か所と中央に新設された両開き扉の合計3扉となっていました。

扉配置が独特な、717系900番台 JR九州に1編成だけ在籍した
Wikipediaより

扉配置の関係からワンマン化が困難であること、種車の製造から40年が経過し老朽化が進んだことから、東北地区では2008年、九州地区では2014年までに全車廃車、残る北陸地区でも521系への置き換えが進み、JR西日本からは運用がなくなりました。JR西日本の所属車のうち、北陸新幹線開業時に5編成が並行在来線会社へ譲渡され、このうちあいの風とやま鉄道所属車の一部は観光列車「一万三千尺物語」に改造されています。

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