TOMIXキハ82 5月発売 サンロクトオでディーゼル特急の基礎を築いた車両

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TOMIXから キハ82「にちりん・おおよど」編成 5月発売

TOMIX、5月の新製品から、キハ82系のご紹介です。すでに2年前から製品化されていましたが、今回は1970年代半ばの「にちりん・おおよど」編成をプロトタイプとし、鹿児島運転所にしか所属していなかったキロ80-2改造のキハ80-900(窓割がグリーン車のままの普通車)が新規製作されます。

1968年(昭和43年)10月、いわゆる「ヨンサントオ」と呼ばれる全国規模のダイヤ改正が実施されます。 ヨンサントオ改正は、これまで運行線区の限られていた特急列車の運行を日本全国に拡大した画期的な白紙改正で、現在の特急列車網の基礎を築いた改正でした。特急『にちりん』も、それまで存在していた博多-(日豊本線経由)-西鹿児島の急行『にちりん』を格上げし、キハ82を使用して運行を開始しました。

しかし、特急網が完成したといっても運行本数は少なく、まだまだ「特急」は特別な存在でした。運行本数は1日1往復で、この時点での日豊本線の主役は急行「日南」「ゆのか」などが担っていました。

一方、特急『 おおよど』は、博多-熊本-宮崎を鹿児島本線、肥薩線、吉都線、日豊本線経由で結んでいた急行『 えびの』を格上げし1974年(昭和49年)改正で誕生、車両は『 にちりん』と共通運用で、キハ82が使用されました。いまでは考えられないような経路を辿る列車ですが、新幹線や高速道路もなく、国鉄は貴重な地域の足として、様々な需要に応えていました。なお、『 にちりん』『 おおよど』の共通運用化で、食堂車キシ80は運用を外れることになります。

日豊本線の電化進展にあわせ、『にちりん 』は増発と電車化が進められますが、一部は『 おおよど』運用を確保するため引き続きキハ82が使用されました。しかし1980年(昭和55年)10月改正で日豊本線の全線電化が完成、『 にちりん』は全列車が485系化され『 おおよど』は廃止、日豊本線でのキハ82の活躍は終了しました。

モデルは基本4両セットの構成で、すでに発売済みの食堂車を含む3両増結セットを組み込んで『 にちりん』編成とするか、単品を組み合わせることで『 にちりん・おおよど』編成の再現が可能です。

キハ80系 初の気動車特急として『はつかり』でデビュー

キハ81を先頭にした特急『はつかり』
Wikipediaより

1958年(昭和33年)、上野-青森に特急『 はつかり』が運行を始めます。当時国鉄の長距離輸送は急行が主役で、東海道・山陽本線系統以外に初めて設定された特急列車でした。しかし、東海道本線の電化完成で捻出された客車が中心で、車両面で寄せ集め感を拭うことはできませんでした。

遡ること2年の1956年(昭和31年)、準急列車用としてキハ55がデビューします。小馬力ながら各車にエンジンを2台搭載し、余裕ある出力のおかげで車体も大型化、走行性能、居住性能などあらゆる面でのSL牽引の客車列車を上回りました。そこて国鉄では、『 はつかり』に新型ディーゼルカーを投入することで所要時間の短縮、接客設備の向上を図ることになります。こうして製造されたのが、初の特急型気動車キハ80系です。

基本的な設計は、電車特急として成功を収めた151系をモデルにして制作され、完全空調と固定窓の採用、クリーム4号の車体と窓周りに赤2号を配した塗装もほぼ同じになっています。一方で非電化区間の低いホームに合わせてステップを装備するなど、使用される線区の実情に合わせた装備もなされています。

特徴的なのは先頭車で、151系同様ボンネット構造をとっていますが、完全電化された客室サービスの電源を賄うための発電セットを設置する関係上短くなったことから、「犬顔」「ブルドッグ」などと称される独特の構造となりました。

先頭車キハ81と中間車キハ80、キロ80、キサシ80の4形式26両が製造され、『はつかり』として1960年(昭和35年)12月から営業運転を開始しました。

しかし、開発期間の短さと取扱いの不慣れ、750㎞に及ぶ長距離運転などが災いし、『はつかり』は運転開始直後からトラブルが続出しました。あまりの問題の多さに列車の存続自体も危うくなり、当時の新聞にも 「はつかりがっかり事故ばっかり」 などと書き立てられる結果となりました。

「サンロクトオ」改正の特急網を担ったキハ80系

当時函館―釧路のロングランナーだったキハ80系特急『おおぞら』
Wikipediaより

こうしたトラブルを抱えながらも、高度経済成長に伴って国鉄の長距離輸送は増加の一途をたどり、日本全国へ特急列車を運転しようという機運が高まりました。そこで、トラブル続きのキハ80の改良に努め、より完成されたグループとして製造されたのが、キハ82と呼ばれるグループです。

トラブルの多かったエンジンやエアコンも信頼性向上を図られ、特に先頭車は従来のボンネット型から、分割併合を前提とした貫通型へと変更され、後のキハ181系や、現在の特急気動車に至るデザインの基本となりました。このため、先頭車は新形式のキハ82となりましたが、中間車についてはキハ80、キロ80は『はつかり』からの続き番号として製造されました。また、編成出力増強のため、食堂車は2エンジン搭載の新形式キシ80として製造されました。

1961年(昭和36年)10月、「サンロクトオ」と呼ばれる白紙ダイヤ改正が行われ、キハ80系は特急列車として日本各地でデビュー、その後も列車の新設や増発に合わせて1967年(昭和42年)まで増備が続き、合計で358両が製造されました。

しかし、キハ80系はエンジンの低出力という致命的な問題を抱えていました。当時の国鉄では、爆発的に増加する輸送量に対応するため、キハ80の設計時に新規の大出力エンジンを開発する余裕がありませんでした。搭載されたエンジンは、当時の国鉄で広く使われ、安定した性能を発揮できるものでしたが、設計の基本は戦前のもので、すでに時代遅れのものでした。1両に基本的に2エンジンを搭載したとはいえ、勾配線区では全くの出力不足で、普通列車と大差ない速度しか発揮できない区間も存在しました。また、耐寒耐雪の不十分で、東北や北海道ではトラブルも多く発生しました。

大出力エンジンを搭載したキハ181 中間車屋根のラジエーターが特徴

このため、1968年(昭和43年)からは出力を大幅に増大したキハ181の製造が始まりましたが、国鉄の財政悪化、非電化区間の電化進展などで158両の製造に留まり、キハ80系はトラブルを一つずつ解決することで長期にわたって運用されることになりました。


最後まで特急として定期運用されたのは、紀勢本線の『南紀』で、1992年改正でキハ85に置き換えられ全車運用離脱、その後はジョイフルトレインとして改造された少数が残るのみとなり、それらも2007年の『トマムサホロエクスプレス』を最後に全廃となり、2009年に最後の保留車が廃車となったことで全廃となりました。

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