1945年7月、青函連絡船が空襲を受け壊滅
既に太平洋戦争も末期症状を示していた1945年(昭和20年)7月14日、本州の東方海上にあったアメリカ軍の機動部隊から、青森・函館一帯へ向けて多数の攻撃機が発進しました。目標は、本州と北海道を結ぶ拠点であった青森、函館一帯と、輸送の大動脈であった青函連絡船。
すでに日本には反撃する力も迎え撃つ力もなく、雲霞のごとく襲い掛かる航空機には為す術もないまま、400人近い乗員乗客が犠牲となり、稼働していた11隻の連絡船すべてが沈没または使用不能、港湾施設を含めて青函連絡船は全滅に近い被害を受け、本州と北海道を輸送する手段も途絶しました。
軍事施設でもない青函連絡船が、なぜここまで大きな被害を受けたのでしょうか。
本州と北海道の大動脈 青函連絡船の始まり
青森と函館の間に本州と北海道を結ぶ航路が開かれたのは、江戸末期の1845年頃と言われています。この頃は北海道の開拓に伴って本州と北海道の往来が急増、一方で海外の軍艦が出没し航路の安全が脅かされ、幕府の命により諸藩に警護が命じられたことから、主要な航路となりました。
明治維新からさかのぼること6年の1861年、帆船による初めての定期航路(5日に1回)が就航、1879年(明治12年)には郵便汽船三菱会社(現在の日本郵船)によって隔日航路が開設されます。
1891年(明治24年)、日本鉄道(現在の東北本線)の盛岡―青森が開通。青森駅が開業するとともに、上野から青森まで鉄道による移動が可能となります。1904年(明治37年)には、現在の位置に函館駅が開業し、1905年(明治38年)には高島―小樽(現在の小樽―南小樽)が開通したことで函館本線が全通、函館と札幌が鉄道でつながりました。
こうした流れを受け、青森と函館の間に鉄道連絡線の開業が期待されるようになり、1908年(明治41年)に当時の帝国鉄道庁によって青函連絡船が就航しました。当時最新鋭の機関を搭載し、所要時間は末期の頃と同等の4時間でした。就航当初は港湾設備がなく、青森・函館では沖合に停泊した連絡船に小舟でさらに連絡するというものでしたが、輸送量の増大で設備も整えられ、1925年(大正14年)には車両の輸送も始まりました。
軍事輸送に駆り出された青函連絡船
昭和に入るとしばらく平穏な時期が続きましたが、やがて戦争の影が青函連絡船にも忍び寄るようになります。
戦争の進展とともに、多くの船舶が戦地へと投入されると、日本国内では貨物輸送を行うための船舶が不足、このため国内貨物輸送を船舶から鉄道へと転換する施策が実施されます。この施策の影響は青函連絡船にも波及し、それまで船舶で運んでいた北海道から本州各地へ向かう大量の石炭を鉄道で輸送することとなり、青函連絡船にも更なる輸送力増強が求められるようになりました。
とは言っても、1941年(昭和16年)度の場合、北海道で産出された石炭のうち、青函連絡船で輸送されたのは産出量733万トンのうち1万トン余りに過ぎず、石炭は依然として船舶による輸送が中心でした。それでも、戦局の悪化に伴い船舶不足はますます深刻なものとなり、青函連絡船は1944年(昭和19年)までに250万トンの石炭輸送能力が求められるようになりました。
これらの計画は、戦局の悪化が明らかになってから泥沼式に実行に移されることとなり、1944年以降次々と新造船が就航しました。しかし、資材の不足で船舶の建造も制限されており、これらの新造船は海軍と長期にわたる折衝の上、石炭を始め戦争を継続する上で不可欠な物資を運ぶ重要性から特別に認められたもので、青函連絡船は半ば軍事輸送としての色合いが強くなってきました。攻撃を受ける恐れがあるとして青函連絡船の時刻は極秘となり、時刻表への掲載もされなくなりました。ただ、しばらくの間はおおむねそれ以前のダイヤ通り運行が続いていたようです。
しかし戦時中に急いで建造された粗悪な船は故障も多く、船が増えても予定通り運行できないことも増加しました。空襲警報や潜水艦の出没により、次第に運行は不定期となり、北海道では石炭を産出しても、輸送できず各地で山積みとなる事態が発生。これにより首都圏など工業地帯では石炭が不足し、これが生産能力を低下させて船舶難に拍車をかけ、さらに輸送能力が低下するという悪循環に陥るようになりました。
1944年秋以降、日本各地が空襲を受けるようになっても、このように重要な使命を帯びた青函連絡船は運航を辞めることはありませんでした。空襲や潜水艦の攻撃に備えて、1944年からは青函連絡船にも武装が施され、武器を扱う軍人も乗船することとなり、青函連絡船はますます軍事色を濃くしていくこととなりました。
アメリカ軍、本州と北海道の輸送途絶を狙い青函連絡船を目標とする
1945年7月、東北から西日本一帯の都市や軍事施設はあらかた空襲により破壊され、日本の反撃はほとんど行われなくなりました。しかし、アメリカ軍の攻撃の手が緩むことはなく、日本が戦争を続ける力を徹底的に破壊するため、残された北海道に対する攻撃が計画されました。
7月14日早朝、本州の東海上を北上したアメリカ艦隊から、数百機に上る攻撃機が発進、目標は本州と北海道を結ぶ大動脈の青函連絡船と、周辺の港湾や都市でした。軍事物資を大量に運んでいた青函連絡船は、アメリカから見ればもはや重要な軍事施設であり、その運航を妨害するのは当然のことと考えられていました。
この時、青函連絡船は旅客船4隻と貨物専用船10隻の合わせて14隻が就航しており、このうち3隻は修理などで航路を離れていて、11隻が航路上または港にありました。
アメリカ軍の攻撃機は、この青函連絡船に容赦なく襲い掛かりました。中には旅客を乗せて航行中の船や、港で旅客の乗降や貨物の積み下ろしの途中であった船もありました。大した反撃力もない連絡船はやられるがままで、午前中までに函館港内で3隻が沈没、2隻が大きな被害を受けるという惨状でした。天候の悪化で一時空襲は中断しますが、午後からはさらに苛烈な攻撃が加えられることになりました。
午前の空襲で残された船は、安全な場所を求めて津軽海峡を逃げ回り、このうちの1隻『津軽丸』は、朝の空襲前に青森を出港して旅客を乗せたままでした。船長はなんとか無事に函館へ到着できるよう慎重に航路を選んで航行していましたが、航行中の船は絶好の攻撃目標となり、ほとんど丸腰の旅客船に対してとは思えないほどの集中攻撃が行われて沈没、乗員乗客169名のうち127名が犠牲(諸説あり確定しない)となりました。
空襲は翌7月15日も続き、14日の空襲で唯一残っていた1隻も沈没。2日間にわたる空襲で、乗員乗客の犠牲者は約350人(諸説あり)に上りました。運航についていた連絡船11隻のうち8隻が沈没、3隻が炎上するなど使用不能、さらにドッグにいた1隻も被害を受け、稼働できる船が1隻もなくなるという事態となりました。これが、青函連絡船史上最悪の日といわれるもので、本州と北海道の輸送は事実上絶たれることなりました。
慌てた海軍や日本政府は、各所から応急的に船舶を集めて何とか輸送を維持しようとしましたが、8月9日には樺太航路から応援に来ていた『亜庭丸』が空襲で沈んでいます。
戦争終結 青函連絡船の復興と青函トンネル建設へ
青函連絡船が空襲を受けた1か月後、戦争は終結しました。この時点で青函航路は、ドッグ入りして難を逃れた1隻と、空襲後修理が完了した1隻の2隻体制で、その後占領地との間を往復していて敗戦により不要となった3隻が加えられ、5隻が青函連絡船として戦後の復興輸送に当たります。
これでは混乱の中急増した輸送にはとても対応できず、アメリカ軍から急遽船舶を借り入れた他、戦争中に起工されたものや、計画されていた応急船の完成を急ぐとともに、資材不足の当時としては異例の速さで新造船の計画が決定します。これらは1948年(昭和23年)までに11隻が就航しています。
しかし、戦後の混乱の中事故も絶えず、1954年(昭和29年)には戦後最悪の海難事故となった洞爺丸事故が発生。これを機に悪天候時の運行体制も整備されるとともに、本州と北海道の安定輸送を実現するため青函トンネル構想が具体化するようになります。
青函トンネルは1961年(昭和36年)に着工、その後27年の歳月をかけて1988年に完成しました。様々な悲劇を背負った青函連絡船も、トンネルの完成で80年にわたる歴史に幕を閉じました。