定着するか 計画運休の賛否 台風事故を過去の教訓と鉄道を取り巻く社会の変化から考える

社会
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計画運休の賛否 安全か社会的使命か

先日の台風19号は、関東甲信越、東北地方を中心に大きな被害をもたらしました。鉄道関連でも、北陸新幹線で車両基地が水没した他、中央本線、水郡線、上田電鉄などで甚大な被害が出ています。1日も早い復旧を祈るばかりです。

さて、最近の台風で鉄道の話題といえば、なんと言っても計画運休ではないでしょうか。

従来は、例えば風速が何十メートル以上とか、累積雨量が何ミリというような基準が設けてあり、それを超えて、つまり実際に危険な状態になって初めて列車の運行を停止していましたが、この計画運休は「危険な状態になることが予想されるから止めよう」という、予防的な考えに基づいているのが特徴です。

社会性の非常に高い鉄道、それも大都市や新幹線を止めてしまうことは、社会的にも大きな影響を与えます。しかし、無理に運転して駅間に立ち往生する可能性もありますし、事故が起こっては元も子もありません。悪天候で休みになる学校に加え、職場も休みとするところも多くなってきていると聞きます。一方で、どうしても休めない人、移動しなければならない人がいることも確かで、その実施を巡っては賛否のわかれるところです。

そこで、少し視点を変え、「今」の基準で計画運休の是非を考えるのではなく、少し歴史を紐解いて過去の教訓から考えてみたいと思います。

悪天候でも運行管理の無かった鉄道黎明期

明治の初めの頃、日本に鉄道が誕生したころの世の中は、多くの人が自宅=職場でした。農業にしろ、商業にしろ、「離れた場所まで通勤する」というケースは稀だったでしょう。また、一人親方の労働者も多かったでしょうから、仕事を休む、休まないの判断も自分一人で済んだはずです。

明治の後半になると、第二次産業や第三次産業が盛んとなり、職場と自宅が離れ、鉄道で工場や会社、学校に通勤、通学するケースが増えてきます。しかし、まだまだ鉄道の速度も遅く、今ほど過密なダイヤではありませんでしたし、災害に対するデータも少なかったので、台風なので運休、休業という発想はなかったようです。

これが見直されるきっかけになったのが、1933年(昭和8年)9月に京阪神を襲った室戸台風でした。

甚大な被害が出た室戸台風 風対策のきっかけに

滋賀県 瀬田川にかかる鉄橋で突風にあおられ転覆した列車 奇跡的に川への転落は避けられたが、死者11名を出した
Wikipediaより

室戸台風は、最初に上陸した際の気圧が当時の単位で916ミリバール(=916ヘクトパスカル)という、日本本土に上陸した観測史上最強の台風で、全国で約3000名に上る死者・行方不明者を出しました。

この台風は、9月21日午前5時ごろ高知県室戸岬に上陸、紀伊水道を抜けた後の午前8時ごろ、最大瞬間風速60m/s以上の暴風を伴って大阪市付近に再上陸しました(現在とは観測方法が異なるため、これらの数値は参考数値として扱われています)。大阪市内では4mを超える高潮が発生し多数の溺死者が発生しましたが、暴風によっても大きな被害が出ました。まだ高層建築も少ない当時、比較的大きな建物であった小学校の建物が暴風を受け止めることとなり、大阪市内の全小学校の4分の3以上の学校で校舎が倒壊または大破以上となりました。当時は台風でも休校という措置はなく、ちょうど登校してきた児童、付き添いの保護者、教職員を中心に死者267名、負傷者1600名以上という大惨事となりました。同様の被害は、京都、滋賀でも発生、この惨事をきっかけに、「悪天候時は学校は休校」という措置が取られるようになったのです。

鉄道でも被害が出ました。最も大きかったのは、滋賀県の瀬田川にかかる鉄橋で、突風にあおられた下り(神戸方面)急行列車が脱線転覆、転覆した側に上り線の鉄橋があったため川への転落という最悪の事態は避けられたものの、死者11名、負傷者202名を出しました。機関士には暴風警戒が伝えられ、徐行運転を行っていましたが、当時は強風で列車を止める決まりや措置はありませんでした。ほかに交通手段が少なかった時代、鉄道の社会的使命は今とは比べ物にならないほど高く、台風だからと言って列車を止めるわけにはいかなかったのでしょう。また、日本の鉄道の定時性は当時から国際的に評価が高く、国策としても列車を走らせることは至上命令でした。この事故は後に「事故が予見できた」として機関士が起訴されるに至りましたが、このような状況下で機関士一人に責任を負わせること自体が、今考えれば不合理なものと思われます。

なお、この日は関西で突風による列車の横転事故が相次ぎ、強風下における運行管理の不備が明らかになりました。そこで沿線各地に風速計の設置が進められ、風速何メートル以上で運休という、具体的な数値をもって列車の運行を管理するシステムが整えられました。

瀬田川転覆事故と同じ日、室戸台風の強風によって摂津富田駅付近でも列車の横倒し事故が発生した 
Wikipediaより

それでも風による列車の横転事故は後を絶たず、台風によるものとしては2006年9月の日豊本線脱線事故、台風以外で記憶に新しいところでは2005年12月の羽越本線脱線事故、遡れば1986年(昭和61年)の余部鉄橋事故、1978年(昭和53年)の営団地下鉄(現東京メトロ)東西線の横転事故など、事故があるたびに設備や観測体制が見直され、規制値が強化されてきました。

日本最悪の台風・海難事故 洞爺丸事故

暴風により転覆し、船底を海面にさらす『洞爺丸』 死者・行方不明者は1155名と、戦時中を除くと国内最悪の海難事故となった 列車を積み込むための開口部の防水が不完全で、車両甲板への浸水が機関室に流れ込み、操舵不能となった後に転覆した この日、青函連絡船は『洞爺丸』を含め5隻が遭難、犠牲者は1430名に上り、全国の死者・行方不明者も300名を数えた のちに「洞爺丸台風」と命名された
wikipediaより

台風による最も大きな鉄道事故は、1954年(昭和29年)に「洞爺丸台風」によって発生した青函連絡船『洞爺丸』の沈没事故でしょう。台風の接近で午前の出航を見合わせた『洞爺丸』は、午後になり晴れ間がのぞいたことから、船長は台風がすでに通過したものと判断、天候の回復を予想して函館を出港しました。しかし出航直後から暴風にさらされ航行不能となり転覆、死者・行方不明者1155名という、戦時を除くと日本最悪の海難事故となりました。この事故をきっかけに青函トンネルの構想が一気に現実化されるとともに、台風時における連絡船の出航判断を、それまでの船長判断から指令との合議制とする、気象台との連絡を密にするなど取り決めが行われ、1988年(昭和63年)の終航まで同様の事故は発生しませんでした。

人間が生き残るための必然的な行動

このように歴史を紐解いてみると、自然災害への対策というのは「犠牲者が出る→対策をとる」の繰り返しなのです。

自然災害に限らず、人間には「生き残る」という本能的ともいえる究極の目的があります。社会を安全なものにし、生き残る確率を少しでも高めることによって、人間は発展してきましたし、その遺伝子を受け継いだものが生き残ってきました。

つまりこれまでの災害で得た教訓から、「実際に危険が生じてからでなく、危険が生じる恐れがある」時点で対策をとるという結論に達したのです。学校を休みにする、列車の運転を止める、ということは、まさにその教訓の集大成であるといえるでしょう。過去を教訓として、生き残る可能性を高める行動をとるのは、人間の必然的な行動であり人間の特権でもあるのではないでしょうか。こう考えると、企業活動が台風時に休業になる日もそう遠くはなさそうですね。

2019年現在は、計画運休の是非がまだ議論されていますが、あるいは数十年後には「昔は台風の時でも電車が動いていたらしいよ」「台風でも会社に行っていたらしいよ」「今じゃ考えられないよね~」と、その時代の若者が会話しているかもしれません。

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