長大ローカル線と言われた天北線・標津線・池北線・名寄本線
JTBパブリッシングから発行の時刻表完全復刻版1988年3月号で当時を振り返るこの話題、しばらく間が空いてしまいましたが、北海道の最終回です。今回は長大ローカルと呼ばれた天北線、標津線、名寄本線、池北線の末期のダイヤを取り上げます。
国鉄末期からJR発足当初にかけては、国鉄再建法に基づいて赤字ローカル線の廃止が進められていました。国鉄の路線を輸送状況によって幹線、地方交通線に分け、一定の輸送基準に満たない地方交通線は、廃止を前提とした特定地方交通線に選定されました。1983年(昭和58年)以降、特定地方交通線は例外を除いて順次廃止されるかまたは廃止への準備が整えられ、1988年3月の時点ではいよいよその整理も終盤に差し掛かっていました。そして、その中でも長大ローカル線の廃止として当時から話題となっていたのが、先の4路線でした。
天北線、標津線、名寄本線、池北線の4線は、いずれも営業距離が100㎞を超え、4線合計の営業距離は548㎞に達していました。100㎞を超える路線の廃止は前例もなく、その影響については未知数で、全線にわたる代替交通機関の確保も問題になっていました。天北線、標津線、名寄本線、池北線は、ともに1984年(昭和59年)に廃止対象として第二次特定地方交通線に選定されましたが、冬季の代替道路輸送に問題があるとしていったん保留となり、正式に廃止が決定したのは翌1985年のことでした。
時刻表1988年3月号には、翌年の廃止を控え最後の活躍を見せる天北線、標津線、名寄本線、池北線の時刻表が掲載されていますので、往時を振り返ってみたいと思います。
天北線・標津線・名寄本線・池北線 在りし日の時刻表
1988年3月改正 天北線 音威子府―稚内 時刻表
天北線は、宗谷本線の音威子府から同じ宗谷本線の南稚内を結ぶ路線で、当初は宗谷本線の一部として1922年(大正11年)に全通しました。1930年(昭和5年)に現在の宗谷本線ルートが開業すると北見線と名を変え、さらに北見市と混同を避けるために1961年(昭和36年)に天北線と変更されました。かつては浜頓別から南へ向かう興浜北線も分岐していました。
営業距離は148.9㎞で、特定地方交通線としては最長の路線でした。
ほかのローカル線と異なる点としては、優等列車である急行『天北』が最後まで運行されていました。
天北線下り 音威子府→稚内 時刻表
◆ | 急行 天北 | ||||||||
札幌 | 1130 | ||||||||
音威子府 | 0444 | 0614 | 1052 | 1355 | 1544 | 1611 | 1831 | 2050 | |
中頓別 | 0536 | 0712 | 1148 | 1455 | 1632 | 1713 | 1935 | 2141 | |
浜頓別 | 0555 0557 | 0737 0739 | 1212 1213 | 1520 1532 | 1650 1651 | 1737 1739 | 1959 2000 | 2200 = | |
鬼志別 | 0641 | 0821 | 1305 | 1613 | 1722 | 1826 | 2040 | ||
曲淵 | 0710 | 0850 | 1356 | 1642 | レ | 1907 | 2108 | ||
声問 | 0738 | 0835 | 0919 | 1425 | 1717 | レ | 1935 | 2136 | |
稚内 | 0753 | 0846 | 0934 | 1440 | 1731 | 1825 | 1952 | 2155 |
◆:休日運休
天北線上り 稚内→音威子府 時刻表
◆ | 急行 天北 | ||||||||
稚内 | 0527 | 0810 | 1015 | 1153 | 1305 | 1700 | 1753 | 2022 | |
声問 | 0542 | 0825 = | 1030 | レ | 1320 | 1715 | 1817 | 2037 | |
曲淵 | 0611 | 1058 | レ | 1350 | 1750 | 1846 = | 2112 | ||
鬼志別 | 0646 | 1126 | 1255 | 1418 | 1821 | 2140 | |||
浜頓別 | 0728 0740 | 0823 | 1207 1220 | 1327 1328 | 1501 1522 | 1902 1904 | 2221 2229 | ||
中頓別 | 0807 | 0849 | 1247 | 1348 | 1549 | 1938 | 2251 | ||
音威子府 | 0905 = | 0946 = | 134 = | 1436 1438 | 1652 = | 2034 = | 2344 = | ||
札幌 | 1856 |
◆:休日運休
音威子府での宗谷本線との接続はあまり考慮されていないダイヤで、ほとんどの場合で1時間以上の待ち時間がありました。
1989年5月1日に全線廃止となり、バス転換されました。現に優等列車の走る路線としては初めてのバス転換による廃線となりました。
1988年3月改正 標津線 標茶―中標津―根室標津/中標津―厚岸 時刻表
標津線は、釧網本線と接続する標茶から根室標津を結ぶ本線と、途中の中標津から根室本線厚岸までを結ぶ支線から成り立っており、全線の営業距離は116㎞に及びました。
かつては、釧網本線斜里(現在の知床斜里)から分岐した根北線が存在し、将来は根室標津で接続する予定で工事が進められていました。しかし、根北線は1970年(昭和45年)に廃止となり、実現することはありませんでした。
広大な根釧台地を横切り、沿線の農林業や鉱産資源の輸送として活躍しましたが、安い輸入資源の増加で沿線の経済力も低下、加えてモータリゼーションが進むと、膨大な赤字を抱えるローカル線となってしまいました。1968年(昭和43年)には、使命を終えた路線としていわゆる「赤字83線」にも指定されていました。
標津線下り 標茶/厚岸→中標津→根室標津 時刻表
釧路 | 0905 | 1140 | 1735 | 2010 | 釧路 | |||||||
標茶 | 0626 | 0749 | 1032 | 1305 | 1530 | 1848 | 2124 | 標茶 | ||||
西春別 | 0702 | 0826 | 1108 | 1345 | 1605 | 1930 | 2156 | 西春別 | ||||
計根別 | 0715 | 0839 | 1119 | 1358 | 1618 | 1946 | 2209 | 計根別 | ||||
厚岸 | || | 0638 | || | 0910 | || | || | 1526 | || | 1908 | || | || | 厚岸 |
別海 | || | 0708 | || | 0941 | || | || | 1557 | || | 1938 | || | || | 別海 |
中標津 | 0735 0745 | 0742 = | 0859 0900 | 1015 = | 1139 1140 | 1418 1420 | 1631 = | 1638 1648 | 2012 = | 2008 2015 | 2228 = | 中標津 |
根室標津 | 0814 | 0928 | 1208 | 1448 | 1717 | 2043 | 根室標津 |
標津線上り 根室標津→中標津→標茶/厚岸 時刻表
根室標津 | 0550 | 0709 | 0954 | 1232 | 1613 | 1824 | 2051 | 根室標津 | ||||
中標津 | 0619 0620 | 0739 0748 | 0752 | 1023 1034 | ← 1306 | 1301 1309 | 1642 1650 | 1653 | 1853 1854 | 2018 | 2120 = | 中標津 |
別海 | || | || | 0827 | || | 1340 | || | || | 1728 | || | 2052 | 別海 | |
厚岸 | || | || | 0857 = | || | 1412 = | || | || | 1758 = | || | 2122 = | 厚岸 | |
計根別 | 0642 | 0812 | 1053 | 1331 | 1713 | 1914 | 計根別 | |||||
西春別 | 0700 | 0828 | 1107 | 1347 | 1727 | 1929 | 西春別 | |||||
標茶 | 0733 = | 0859 0919 | 1139 1154 | 1418 = | 1759 = | 2002 = | 標茶 | |||||
釧路 | 1018 | 1300 | 釧路 |
1989年4月30日限りで全廃となり、バス転換されました。標茶、厚岸で接続する釧網本線、根室本線とも、どちらもそれ自体が存続を危ぶまれている路線で、支線区間の厚岸―中標津に至っては1日4本という状態でした。標茶からは釧網本線経由で釧路への直通列車があり、すべての列車が釧網本線との併結で、標茶で連結または解結が行われていました。当初は鉄道による存続の道も検討されましたが、資金的な問題で実現には至りませんでした。
1988年3月改正 名寄本線 名寄―紋別―中湧別―遠軽/中湧別―湧別 時刻表
名寄本線は、宗谷本線の名寄から紋別、中湧別を経て石北本線の遠軽に至る本線と、中湧別―湧別の支線から成り立っており、営業距離143㎞の路線でした。かつては、渚滑で渚滑線、興部で興浜南線、中湧別で湧網線と接続していましたが、いずれも名寄本線より一足早く廃線となっています。
北海道のオホーツク海沿岸は、陸路では険しい地形に隔てられ、頼みの海路も冬には流氷で閉ざされるという難所で、開拓のためにも安定した交通網の整備が望まれていました。1915年(大正4年)にまず後の名寄本線と石北本線の一部に当たる下生田原(現在の石北本線安国)-遠軽-社名淵(後の名寄本線開盛)が開業、すでに開通してた路線と合わせて社名淵から網走までがつながり、翌1916年(大正5年)には社名淵-中湧別―下湧別(後の湧別)が開通しました。また、1927年(昭和2年)には旭川から遠軽まで石北線も開業、遠軽のスイッチバックはこうした路線形成の名残です。
名寄からは、地形的な難所をできるだけ避け順次開通、中湧別側からの工事も進み、1921年(大正10年)に名寄―遠軽が全通、オホーツク海沿いの地域の発展に大いに貢献しました。
しかし、モータリゼーションの進展で利用は次第に低迷、1986年(昭和61年)改正で急行『紋別』が快速に格下げ、線内を経由していた『大雪』も廃止され、優等列車が全廃となりました。
名寄本線下り 名寄→紋別→中湧別→遠軽/湧別→中湧別 時刻表
旭川 | ◆ | 1912 | 旭川 | ||||||||||
名寄 | 0551 | 0655 | 0805 | 1210 | 1445 | 1715 | 1850 | 2040 | 名寄 | ||||
下川 | 0614 | 0720 = | 0837 | 1234 | 1509 | 1739 | 1923 | 2102 | 下川 | ||||
興部 | 0729 0730 | 0940 0941 | 1341 1342 | 1615 1616 | 1851 1852 | 2028 2029 | 2205 2206 | 興部 | |||||
渚滑 | 0756 0757 | 1004 1004 | 1407 1407 | 1642 1642 | 1917 1917 | 2052 2052 | 2229 2230 | 渚滑 | |||||
紋別 | 0643 | 0804 0804 | 1011 1012 | 1140 | 1414 1418 | 1649 1654 | 1924 1932 | 2059 2107 | 2236 2246 | 紋別 | |||
湧別 | 0708 | || | || | || | || | || | 1629 | || | || | || | || | 湧別 | |
中湧別 | 0717 → | 0722 0728 | 0842 0849 | 1047 1048 | 1224 1225 | 1456 1457 | 1637 1638 | 1732 1733 | 2010 2011 | 2141 2155 | 2320 2321 | 中湧別 | |
遠軽 | 0754 | 0914 | 1111 | 1251 | 1523 | 1704 | 1759 | 2036 | 2217 | 2344 | 遠軽 |
名寄本線上り 遠軽→中湧別→紋別→名寄/中湧別→湧別 時刻表
遠軽 | 0440 | 0542 | 0608 | 0800 | 0945 | 1115 | 1315 | 1547 | 1819 | 1945 | 2130 | 遠軽 | ||||||
中湧別 | 0459 0500 | 0602 0602 | 0631 0634 | → 0655 | 0823 = | 1005 1006 | 1138 1139 | 1338 1339 | 1610 1613 | → 1616 | 1842 1843 | 2006 2013 | 2153 2154 | 中湧別 | ||||
湧別 | || | || | || | 0703 = | || | || | || | || | 1624 = | || | || | || | 湧別 | |||||
紋別 | 0534 0535 | 0637 0649 | 0719 0720 | 1045 1048 | 1218 = | 1305 | 1417 = | 1540 | 1652 = | 1734 | 1919 1950 | 2049 = | 2230 = | 紋別 | ||||
渚滑 | 0540 0541 | 0655 0655 | 0727 0727 | 1054 1055 | 1311 1312 | 1546 1547 | 1740 1741 | 1956 1956 | 渚滑 | |||||||||
興部 | 0605 0606 | 0723 0723 | 0759 = | 0900 | 1119 1120 | 1339 1348 | 1613 1622 | 1808 1809 | 2020 2034 | 興部 | ||||||||
下川 | 0732 | 0836 | 1016 | 1236 | 1510 | 1742 | 1922 | 2210 | 下川 | |||||||||
名寄 | 0754 = | 0851 0900 | 1037 = | 1258 = | 1532 = | 1803 = | 1943 = | 2230 = | 名寄 | |||||||||
旭川 | 1027 | 旭川 |
◆:休日運休
廃止間際の末期でも、遠軽―紋別を中心に1~2時間に1本程度が運転され、本線としての格を見せていましたが、1989年5月1日に廃線となり、バス転換されました。廃止された特定地方交通線の中では、唯一の本線でした。利用の多かった名寄―下川と紋別―遠軽を鉄道で残す道も模索されましたが、実現には至りませんでした。
1988年3月改正 池北線 池田―北見 時刻表
池北線は、根室本線の池田と石北本線の北見を結ぶ、営業距離140㎞の路線でした。沿線にある豊富な森林資源輸送のため、野付牛(のっけうし、現在の北見)-池田の全線開通は1911年(明治44年)と古く、池田からはすでに開通していた根室本線を経由して札幌や函館とつながりました。冬には流氷によって閉ざされるオホーツク海沿岸の地域にとって、待望の鉄道開通でした。
1912年(大正元年)には後に石北本線となる野付牛-網走も開業し、網走―野付牛―池田が網走本線となり、1932年(昭和7年)には石北線が野付牛へ到達、こちらが札幌への短絡路となりました。1961年(昭和36年)、北見―網走が石北本線に編入となり、北見―池田は池北線と改められました。
しかし、沿線の過疎化とモータリゼーションの進展で利用客は激減、第二次特定地方交通線に選定されることとなりました。
池北線下り 池田→陸別→北見 時刻表
帯広 1511 | 新得 1714 | ||||||||||||
池田 | 0458 | 0645 | 0938 | 1122 | 1325 | 1617 | 1855 | 2111 | |||||
足寄 | 0549 | 0800 | 1029 | 1217 | 1427 | 1709 | 1957 | 2212 | |||||
陸別 | 0626 = | 0847 0848 | 1109 1110 | 1301 = | 1512 1522 | 1804 1814 | 2044 2054 | 2249 = | |||||
置戸 | 0703 | 0859 | 0930 0938 | 1150 1202 | 1332 | 1605 1606 | 1710 | 1856 1908 | 2138 2146 | ||||
訓子府 | 0723 | 0800 | 0918 | 0954 | 1227 | 1357 | 1625 | 1730 | 1931 | 2203 | |||
北見 | 0749 | 0835 | 0942 | 1015 | 1252 | 1422 | 1650 | 1755 | 1956 | 2234 |
池北線上り 北見→陸別→池田 時刻表
北見 | 0601 | 0717 | 0807 | 1157 | 1550 | 1809 | 1903 | 2036 | 2210 | |||
訓子府 | 0625 | 0757 = | 0832 | 1225 | 1627 | 1836 | 1930 | 2102 | 2243 | |||
置戸 | 0648 0652 | 0855 0934 | 1249 = | 1650 1708 | 1859 = | 1954 1955 | 2124 = | 2306 = | ||||
陸別 | 0638 | 0738 0752 | 1020 1021 | 1307 | 1756 1820 | 2041 2050 | ||||||
足寄 | 0622 | 0723 | 0841 | 1103 | 1350 | 1908 | 2128 | |||||
池田 | 0716 | 0818 | 0935 | 1154 | 1451 = | 2014 = | 2225 = | |||||
新得 0920 | 新得0958 | 帯広 1040 | 帯広 1254 |
他の3線とは違い、池北線は鉄道としての存続の道を選ぶこととなり、池北線は1989年6月4日に第三セクター鉄道「ちほく高原鉄道」として引き継がれました。
池北線は「ふるさと銀河線」と名付けられ、発足数年間は増便などの利便性向上が図られました。また、第三セクター化に伴い廃止された帯広直通列車も1991年より再開、リゾート列車やSL列車の運行も行われるなど、活性化に向けた取り組みが行われました。
しかし、沿線の過疎化により利用客は減少、特に少子化で頼みの綱だった高校生の利用が激減し、初の通年営業となった1990年度に年間100万人あった利用客は、2002年には50万人まで落ち込みました。発足当初の経営基金も底をつくこととなったことから、2006年をもって廃線、バス転換されました。