過去にもあった 史上最悪の「減量ダイヤ改正」
2020年から2021年にかけては、コロナ禍で全てが異常づくめの年になりました。社会活動全体の落ち込みを反映し、2021年のダイヤ改正は、終電の繰り上げや輸送力適正化など、全国的に近年まれに見る減量改正となりました。
しかし、減量改正が行われたのは何もこれが初めてのことではありません。日本に鉄道が開業して間もなく150年、この長い歴史の間には、鉄道も日本の経済とともに発展した時期もあれば、縮小を余儀なくされたこともありました。
ダイヤ改正というと、いわゆるサンロクトオ(昭和36年10月改正)、ヨンサントオ(昭和43年10月改正)など、新車両の投入や新列車の設定が大規模に行われた例が有名ですが、中には今回のように大幅な縮小となった例もあります。その中でも、最も列車の運転規模が縮小され、「史上最悪のダイヤ改正」と言われたのが、今回ご紹介する1947年(昭和22年)1月改正でした。
第二次世界大戦と鉄道 貨物輸送が優先された
1937年(昭和12年)に始まった日中戦争は、次第に戦火が拡大、ヨーロッパやアメリカも巻き込み世界戦争へと発展しました。これが第二次世界大戦です。8年にも及ぶ戦争の結果、日本の経済は疲弊し、国民生活は大変苦しいものになっていました。
戦時中、鉄道は軍事物資の輸送、工場への通勤の足として軍隊に準ずる重要な組織とされていました。国民の不要不急の移動や旅行は制限され、代わって貨物列車が全国的に優先されるようになりました。機関車や貨車の製造も急ピッチで進められ、1944年(昭和19年)の鉄道省(のちの国鉄)所有貨車は、1937年の1.6倍にも達しました。1941年(昭和16年)からは貨車の積載量を増やす施策が行われ、実に貨車10,000両以上を増産するのと同じ効果を得ることができました。この結果、1943年(昭和18年)の貨物輸送量は1億6000万トンと過去最高を記録しました。
しかし、戦局の悪化した1944年から輸送量は減少に転じ、各地が空襲を受けるようになると施設や車両の損傷も増えてきました。また、直接戦災を受けなくても酷使とメンテナンス不足により、満足に稼働できる車両もだんだんと少なくなっていきます。このため、1945年(昭和20年)の貨物輸送量は8000万tあまりと前年から半減してしまいました。
旅客列車については、1940年(昭和15年)頃までは輸送力の増強が図られており、占領地との間を結ぶ航路と接続する国際列車なども充実していました。しかし、そのころを頂点として次第に戦時輸送に変革し貨物列車が優先され、急増する旅客輸送に対して輸送力が追い付かず、慢性的な混雑が続くようになります。それに伴い、1941年頃からまずは寝台車や食堂車の削減が始まり、特急列車の廃止や通勤電車増発のための所要時間増加が顕著になりました。1944年には「決戦ダイヤ」として特急はすべて廃止、翌1945年初頭の改正では東海道・山陽本線系統以外の急行列車もすべて廃止となりました。
終戦時には6割まで減少していた旅客列車
これらの結果、1942年に1日当たり43万キロ設定されていた旅客列車は、1945年6月の時点で26万キロにまで削減、実に6割にまで減少していました。
戦時中、鉄道省は全営業キロの5%に当たる1600㎞余りが被災、駅舎198か所、機関車891両、電車563両、客車2228両、貨車9557両が破損。車両の被害は、当時の保有車両の10%にも上りました。また、職員の殉職は1250名、旅客死者717名に上り、まさに満身創痍でした。日本の鉄道はこのような状態で終戦を迎えましたが、1日たりとも休むわけにはいきませんでした。戦時輸送は終わったものの、戦後の復興というより大きな仕事を担うことになります。
戦時中は軍隊が国家を統制し、その中で鉄道は重要手段として扱われたたため、整備や修理も優先的に行うことができました。各地が空襲で被害を受けても、可能な限り早い運行再開を目指し、鉄道は真っ先に復旧されてきました。例えば原爆の被害を受けた広島駅でも当日午後には広島-西条で折り返し運転が復旧、長崎駅でも被爆3日後から列車の発着が再開されています。
ですが、終戦とともに軍隊は機能しなくなり、あらゆる面で統制を失った社会は混乱の極みとなりました。1946年には、線路補修に必要とさえた鋼材のうち、入手できたのは1割程度にとどまり、窓ガラスが手に入らずベニヤ板でふさいだり、座席のモケットがなく木張りのままであったりと車両の整備も行えませんでした。そのような中でも、戦地からの引き上げ輸送、買い出しなどで旅客輸送は膨れ上がり、さらに最優先で占領軍の輸送を行わなければならず、また不足する資材を全国各地へ届ける役目を担いっていたことから、なけなしの資材を削って輸送力の確保が行われていました。
石炭不足を反映した1947年1月ダイヤ改正
遅々として進まない復興の中、1946年には国内の石炭不足が問題となります。当時燃料の主力だった石炭の不足は、鉄鋼生産量の減少や電力不足を招き、これがさらに石炭の生産を滞らせる結果となりました。また、暖房用石炭の不足も予想されたことから、日本政府は重点的に石炭を配分する産業を指定、これにより経済の回復を期待することとなりました。
この施策は「傾斜生産方式」と呼ばれ、特に石炭の生産を重視、このために必要な鉄鋼の生産を最優先とし、経済の回復を図ろうというもので、鉄道はこの重点配分から除外されることとなりました。そのあおりを受け鉄道は燃料用の石炭が不足、1947年1月改正ではこれを受けて大幅な列車の削減が行われることとなりました。
具体的には、辛うじて各地に存在していた長距離列車をほぼ全面的に廃止、急行列車と前年に登場した準急列車、2等車(現在のグリーン車)も全廃、旅客列車の列車キロは15万キロと、1945年のさらに6割以下にまで削減されてしまいました。これが日本の鉄道史上最悪のダイヤ改正と呼ばれるものです。
旅客列車の状況を見てみると、例えば東海道本線東京口の場合、東京駅を発着する列車は上下各35本、毎時2本程度の運転でした。これで東京近郊輸送はもちろん、東海道本線・山陽本線系統の長距離輸送も担う必要がありましたが、燃料や資材不足でダイヤに影響の大きい長距離列車はほとんど設定されませんでした。
下り(東京発)列車35本のうち、大半は静岡県以東止まりで、名古屋行き1本、米原行き1本、大阪を超えて山陽本線を通って九州まで直通する門司、博多行きが各1本という状況でした。上り列車に関しては、全線直通列車は博多、門司発が各1本、大阪発が1本で、名古屋発が2本、残りは静岡県以東発のもので、東京―大阪でさえ直通列車は下り2本、上り3本という有様でした。
列車の速度も極端に遅く、東京を7:25に出発した下りの博多行きが大阪を発車するのは22:00、博多に到着するのは翌日15:52で、実に30時間以上が必要でした。また、上りの門司発は、山陽本線と東海道本線でそれぞれ夜行運転の2泊運行となっていました。
東北本線上野発では、長距離列車は盛岡までの列車が1往復、次いで仙台までが1往復で、全線通しの列車は設定されませんでした。上野を19:10に出た盛岡行きが仙台を発車するのは翌朝5:06、盛岡に到着するのは同じく10:35で、15時間以上かかっていました。
史上最悪期は脱出 国鉄黄金時代への幕開け
これが社会に与えた影響は甚大で、たちまち輸送に滞りが生じ、かえって社会全体の生産効率が極端に落ち込む結果となりました。このため、石炭の重点配分に鉄道が加えられることとなり、石炭事情の好転とともに列車の運行状況も改善、4月には東京―九州に急行列車が復活しました。
また、非常に厳しい時代にもかかわらず、1947年の鉄道貨物は1億t、翌1948年には1億3000万tを輸送、目立たない役割ながら日本の復興に大きな役割を果たしました。
翌1948年7月改正では、社会情勢が安定してきたことを受け、全国の主要幹線で急行・準急列車が設定されるようになり、運行の不安定さも次第に解消されていきました。
日本の鉄道史上最悪の時期を乗り越え、1949年(昭和24年)には新たな体制として日本国有鉄道(国鉄)が発足、その混乱で後に国鉄三大ミステリーと言われる下山事件、三鷹事件と松川事件が起こる不穏なスタートでしたが、この年の9月に行われたダイヤ改正では東京―大阪に特急『へいわ』が運転を開始、『富士』が廃止された1944年改正以降途絶えていた特急列車の運転が再開されました。この頃から日本の復興にも弾みがつき始め、国鉄は輸送力増強に奔走することとなります。