大都市圏の非電化路線用として製造されたキハ35
製造されたものの、故障続きで、本来の性能を発揮できなかった車両。
設計時と製造後のギャップが大きく、本来とは違った用途に使わざるを得なかった車両。
言い換えれば不運だった車両もいろいろありますが、今回はキハ35系列のお話です。
昭和30年代は、既存の都市圏だけでなく、これまで田園風景が広がっていた郊外にまで開発の波が押し寄せた時代でした。
大阪・天王寺から奈良を通って名古屋を結ぶ関西本線は、大阪-奈良-名古屋の都市間輸送のため建設された路線で、その主役を東海道本線に譲ったとはいえ中距離~長距離輸送を想定した路線でした。猛烈な勢いで沿線の宅地化が進む一方、大阪近郊区間でも、SLがけん引する客車列車が1時間に数回走る程度で、近代化から大きく取り残されていました。
しかも関西本線には、近鉄奈良線、大阪線といった強力なライバルもありました。戦前の旧型客車を主体とした関西本線は、本数、スピード、サービスレベルのどれをとっても、近鉄に大きく水をあけられていました。そこで、関西本線はもちろん、首都圏、関西圏近郊区間の非電化路線の近代化が検討されました。
しかし当時の国鉄は、殺人的と言われる首都圏のラッシュ対策を始め、全国の主要幹線の輸送力増強に膨大な予算が必要で、とてもこれらの路線を改良を進める金銭的余裕はありませんでした。そこで、ひとまずディーゼルカーを投入してSLを廃止し、当時中央線や山手線に投入されていた101系に近いサービスを提供することとなり、そのために1961年(昭和36年)から製造されたのがキハ35系列でした。片運転台でトイレ付のキハ35、トイレなしキハ36、そして両運転台のキハ30の3タイプ合わせて413両が製造されました。
キハ35系列は、使用想定線区を「都市近郊で比較的乗客が多いが、電化されていない路線」とし、性能的には当時新鋭だったキハ58と同等ながら、ラッシュ対策に重点を置いた車両でした。車内はオールロングシートで、101系と同じ両開き扉を採用しました。さすがに片側4扉は設備過剰とされたため、片側3扉となりました。汽車用の低いホームに合わせて扉にステップを設置したため、工作の簡略化から外側の吊り扉となり、これがキハ35系列の最大の特徴となりました。
1961年(昭和36年)12月のダイヤ改正より関西本線大阪近郊区間に投入され、汽車ダイヤから国電ダイヤへと移行します。当時は新型車導入とサービスアップが大々的にPRされ、並行する近鉄に一矢報いることになりました。その後、関西圏の他の非電化路線や房総、北関東、北九州などにも配置され各地の近代化に貢献することになります。
電化進展で活躍の場を追われる
キハ35の本来の活躍はさほど長いものではありませんでした。
昭和40年代以降、これらの路線はほとんどが電化されることになります。キハ35の使用想定線区であった「都市近郊で比較的乗客が多い」路線は軒並み電化され、その役目を電車に譲るこるとになりました。最初に投入された関西本線でも、1973年(昭和48年)には湊町-天王寺-奈良の電化が完成し、12年の活躍に終止符を打ちました(残された非電化区間では使用が続きました)。
都市近郊で活躍の場を失ったキハ35は、その運用を地方選区へと移します。
しかし、ラッシュ対策を中心に設計されたキハ35は、ローカル運用には不向きでした。片側3扉は明らかに供給過剰で、乗車時間の長いローカル線では、オールロングシートは乗客から不満の声が寄せられました。扉が運転室から離れているためワンマン化も困難で、次第に使い勝手の悪い車両となってしまいました。
最終的には、乗車時間もそれほどではなく、使い勝手が悪くても困らない程度にしか乗客のいないローカル線を中心とした運用がほとんどとなりました。同年代のキハ58の活躍が続く中、大半は1990年代前半には引退、2012年の久留里線を最後に全車廃車となりました。
また、ほとんどがローカル輸送に転じる中で、相模線や片町線(現学研都市線)では、4両程度の比較的長編成を組んで頻発運転ダイヤに使用され、1991年までは本来の用途として活躍する姿もわずかながら見ることができました。
都市近郊非電化路線の改善を期待して投入されたキハ35でしたが、結局はそれらの路線は間もなく電化されることになり、こうした車両はすぐに必要なくなる結果となりました。状況の変化に翻弄されて、本来とは違った用途でその性能を発揮できなかった一例でしょう。
近郊タイプのディーゼルカーは、地方路線の電化も進みその後長く設計されることはなく、1996年になってJR北海道にキハ201が製造されるまで30年の年月が開くことになりました。