『銀河』で再デビューの117系 どんな車両だった?地域密着車両の先駆け、オリジナルは運用狭まる元新快速「専用」117系を解説します

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WEST EXPRESS 銀河で再デビュー 117系

2020年5月に運行開始が予定されている『WEST EXPRESS 銀河』。その改造もとになった車両は117系と呼ばれる車両です。この117系は国鉄末期の1980年(昭和55年)に京阪神地区の新快速専用として製造されました。特定の地域で使うことだけを想定した車両は、 全国で標準化政策を進める国鉄の中にあって全くの異色の存在で、これ以降「地域密着型」車両が続々と登場するきっかけにもなりました。その後東海地区にも少数が投入されただけにとどまり、それ以外の地域の方にはあまりなじみのない車両かもしれませんが、最後までお付き合いいただければ幸いです

117系電車 でもその前にJR西日本の看板列車「新快速」の概要から

117系を解説するためには、まずは新快速の歴史を遡らなければなりません。

山崎駅付近を走る223系新快速 撮影:鉄道模型モール制作室
山崎駅付近を走る223系新快速
撮影:鉄道模型モール制作室

新快速は、京阪神地区を中心に東は敦賀、西は播州赤穂までを結ぶ快速列車で、JR西日本の看板列車でもあります。中心となる京都-姫路では朝ラッシュと夕ラッシュの一部は約7~8分間隔、それ以外は夜間を除き15分間隔で運行され、ほぼ同じ間隔で運転される快速と合わせて極めて高頻度の速達サービスが提供されます。京都駅、大阪駅では、上下とも毎時00、15、30、45分発と分かりやすいダイヤも特徴です。

京都-大阪-三ノ宮では並行する私鉄と古くから特に競争が激しく、戦前から各者とも速度、本数、快適さでしのぎを削ってきました。特にスピードでは国鉄時代から圧倒的で、現在は最高速度130km/hで他社の追従を許さず、大阪-三ノ宮30.6kmを途中尼崎と芦屋に止まって21分(表定速度87.4km/h)、京都-大阪42.8kmを途中高槻と新大阪に止まって28分(表定速度91.7km/h)で結びます。首都圏に例えた場合、東京-高尾を35分程度、東京-千葉を27分程度で結ぶ速さです。

1992年当時の京都駅 発車時刻表を兼ねた新快速の案内板がある
1992年当時の京都駅 発車時刻表を兼ねた新快速の案内板がある
wikipediaより

戦前の歴史を飾った新快速のルーツ「関西急電」 

新快速の前身は、1934年(昭和9年)の吹田-須磨電化で設定された急行電車(いわゆる関西急電)まで遡ります。既に私鉄との競争で多くの乗客を奪われていた鉄道省は、巻き返しを図るため電化を機に大阪-神戸の急行電車の運転を始めます。

関西急電に使用されたモハ52系
関西急電に使用されたモハ52系
wikipediaより

1937年(昭和12年)には京都-吹田の電化工事が完成し、急行の運転区間も京都-神戸に延長され、京都-大阪を34分、大阪-三ノ宮を25分で結びました。京都延長にあわせ、急行電車用として52系電車がデビュー。 リベット打ち、ぶどう色の無骨な車両ばかりだった中に、当時流行していた流線型の滑らかな車体と、クリームをベースに茶色帯の斬新な塗り分けは乗客から大好評だったとされています。この塗り分けは新快速のベースカラーとして今なお健在で、後の117系の塗装や最新225系の帯色としても採用されています。

余談ですが、並行私鉄でも急行に対抗し、阪急神戸線の特急が梅田-神戸(現在の神戸三宮)を25分、新京阪線(現阪急京都線)の超特急が天神橋-京都(現在の天神橋筋六丁目-大宮)を34分で走破すると、速度に劣る阪神は本数で対抗、「またずに乗れる阪神電車」というキャッチコピーを生み出しました。

しかし、まもなく戦争が始まると、京阪神においても競争どころか運行がやっとという状況となり、1942年(昭和17年)に急行電車はいったん廃止となります。急行の運行再開は1949年(昭和24年)で、再び52系が運用につきましたが、翌年には80系へと置き換えられます。また、1957年(昭和32年)には東海道本線に準急電車が登場、本来急行料金が必要な急行列車との矛盾が生じたことから、関西急電は快速へと名称変更されました。

快速より早い「新快速」の登場 実は大阪鉄道管理局の下克上だった?

1970年(昭和45年)10月、万博輸送終了のダイヤ改正が行われ、京都-大阪-三ノ宮-明石-西明石で、日中のみ毎時1本、1日6往復の新快速の運転が始まります。停車駅は記載の駅だけで、当初は新大阪も神戸も止まりませんでした。名目は快速列車の速達化でしたが、実は以下のような事情があったといわれています。

1950年代から60年代にかけて、首都圏では毎年増加する通勤輸送に輸送力が全く追い付かず、殺人的なラッシュ混雑対策のため、国鉄は膨大な予算を割いていました。そのため車両の投入も首都圏が最優先で、関西地区は古い車両をやりくりして運行している状態で、並行私鉄が軒並み近代化されいていく中、国鉄は車両面で大きな遅れを取っていました。京阪神地区を管理する国鉄大阪鉄道管理局(大鉄局)では、万博輸送を口実に多数の新車を導入しましたが、国鉄本社は万博終了後これらの車両を首都圏へと転属させる心づもりがありました。その証拠に、この時期に投入された113系は関西では使用されていない横須賀線色で、将来横須賀線で使用するつもりであることは明らかでした。そこで大鉄局は、車両の転属計画が立てられる前に関西地区のダイヤ改正を計画、東京へ転属するであろう車両を使用したダイヤを組んでしまいました。こうして大鉄局は、当時最新であった113系を確保することに成功、その産物として生まれたのが新快速でした。モデルとなったのは当時京王線に対抗するため中央線に登場した特別快速であったといわれていますが、経緯上首都圏と同じ名称を嫌い、新しい名称が生まれました。

153系の投入 冷房付き急行電車が快速電車に

こうして誕生した新快速ですが、乗客からは好評で1972年(昭和47年)改正では毎時4本という、現在と変わらないダイヤに大増発されます。当初の運行パターンは京都-西明石(毎時3本)と、京都-姫路(毎時1本)で、姫路系統は西明石を通過しました。当時は複々線のうち外側線は国鉄本社の管轄で、大鉄局管理の新快速が走ることはできませんでした。このため、運行は日中のみとし、普通電車は京都-甲子園口と吹田-西明石の2系統に分離せざるを得ませんでした(甲子園口駅の折り返し線はこの名残です)。車両面でも、新幹線の岡山開業によって余剰になった153系を充当、冷房付きの急行車両に料金不要で乗車できる破格のサービスとなりました。 車体色は新快速専用の白に水色帯となり、「ブルーライナー」の愛称が与えられました。 同時に最高速度を110㎞/hにアップ。京都-大阪は29分となりましたが、線路容量の関係から大阪-三宮は23分のままでした。

1978年(昭和53年)当時の153系新快速「ブルーライナー」
1978年(昭和53年)当時の153系新快速「ブルーライナー」
wikipediaより

1970年代半ばには、新快速、阪急、阪神、京阪による激しい乗客獲得競争が展開されるようになりますが、153系は1958年(昭和33年)から製造された車両で、並行私鉄が軒並み新車に置き換えられる中で、急行用とはいえ次第に老朽化、陳腐化が顕著になります。 また、このころから国鉄では労使関係(現場の職員と経営者の関係)が極度に悪化、職場規律や業務効率の低下、ストライキまがいの行為(国鉄職員のストライキは法律で禁止されていました)により列車の遅れや運休が慢性化します。膨大な赤字を穴埋めするため毎年のように運賃値上げも続きました。このため、多くの乗客が並行する私鉄へ流れ、国鉄のシェアは低下の一途をたどりました。

並行私鉄へ一矢報いるために… 京阪神地区の実情に応えた地域密着車両117系

新快速で運用される117系
新快速で運用される117系
wikipediaより

1980年代になると、国鉄の混乱も落ち着きを見せ、分割民営化も現実味を帯びるようになります。膨大な累積赤字、勤務態度や接客の悪さ、業務の非効率さ、まったく欠落した利用者目線などが社会から大きな批判を浴び、国鉄改革が叫ばれるようになりました。そんな中、大きく私鉄に水をあけられた京阪神地区で一石を投じようと、新型車両が投入されることになりました。

オール転換クロスシートの117系車内
オール転換クロスシートの117系車内
wikipediaより

設計にあたっては、非常に高いサービスレベルにある並行私鉄と十二分に対抗できるよう、京阪神の実情に合った車両として設計され、それまで車両標準化政策を進めてきた国鉄とは一線を画した車両となりました。従来の近郊電車から大幅に刷新され、中距離輸送と快適性を両立する両開き2扉を採用、車内はオール転換クロスシートで、連結面は木目調の化粧板、吊革なし、蛍光灯にはカバー付きと、デッキなしを除けば十分に急行型を凌ぐ設備を持っていました。最高速度は110km/hで、高速運転を前提とし足回りは上位機種を搭載、前面は特徴ある非貫通高運転台、塗装は関西急電を強く意識したクリームと茶色帯(正確にはクリーム1号とぶどう色2号)という専用カラーを纏っているのも、今までの国鉄では考えられないものでした。今となっては当たり前ですが、117系は投入される線区の求める実情に合わせて設計された画期的な車両で、輸送単位の小さな路線向けの105系や、乗車距離が短く普通列車としても使用する185系など、以後投入される車両にも大きな影響を与えました。

最初の編成は1979年(昭和54年)9月に竣工、翌年夏までに21編成(126両)が製造され、すべての新快速が117系に置き換えられました。117系は153系の「ブルーライナー」に倣って「シティライナー」と名付けられ、大々的にPRされました。国鉄改革の真っただ中、まだ国鉄の劣勢が続く中で、117系の投入は新快速や国鉄のイメージアップに大いに役立ち、現在の新快速の独走につながる布石を投じることに成功しました。

一方1982年(昭和57年)には、細部を変更し東海地区へ9編成(54両)が投入され、名古屋周辺での輸送改善に貢献しました。また、1986年(昭和61年)の国鉄最後のダイヤ改正では、マイナーチェンジを行った3編成(18両)が京阪神に、短編成化のため先頭車のみ18両が東海地区へ追加投入されています。

117系の投入以後は、JR化前後から京阪神地区の看板列車として積極的なてこ入れが行われるようになります。1985年(昭和60年)改正で新大阪に停車するようになり、民営化を控えた1986年(昭和61年)改正には山科、西明石にも全列車が停車、さらに新快速の外側線走行が始まり、緩急接続も劇的に改善されました。

新快速運用から撤退 廃車も始まる

国鉄が分割民営化されJR西日本が発足すると、 1989年に後継となる221系が登場します。他社が真っ先に特急列車に新車を投入する中で、JR西日本が1番に新車を投入したのは新快速でした。朝夕ラッシュにも新快速が設定されるようになり、このころから乗客の増加で次第に2扉の117系では対応が困難になりつつありました。性能的にも、1990年改正で117系の最高速度を115㎞/hに引き上げましたが、120㎞/hを行う221系との性能差は大きく、増備が進むにしたがって次第に新快速運用から撤退します。阪神大震災による突発的な運用の増加などはあったものの、1999年改正で新快速の最高速度が130㎞/hに引き上げられたのに伴い、すべての新快速から撤退しました。

また、新快速運用から撤退した117系は、福知山線や湖西線、奈良線など京阪神近郊各線へと転出します。しかし、2扉構造が災いしラッシュへの対応が困難で、しばしば遅延の原因ともなっていました。223系や225系の増備が進むと、これらの路線からも次第に撤退し、紀勢本線・和歌山線・山陽地区へ活躍の場を移します。また、老朽化による廃車も2015年ごろから本格化。転属により紀勢本線はすでに運用はなく、2019年12月現在編成単位で残っているのは、岡山の4両編成×6、吹田の8両編成×1、6両編成×7、日根野の4両編成×3となっています。

なお、東海地区のJR東海所属車は、2014年までに全廃されました。

2020年5月 新たな長距離列車『WEST EXPRESS 銀河』へ

2017年6月、JR西日本は、117系6両1編成を改造、新たな長距離列車サービスを提供することを発表しました。すでにその概要や車内設備は発表されているためこの場では割愛しますが、運行開始まで半年を切り楽しみな一方、すでに車齢40年を迎えることから、いつまで活躍できるのかも気になるところです。

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